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2024年02月28日16:58

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戦争が「人の顔」をするとき

自分も含め関西人にとっては、おそらくお馴染みの方であろう元関西テレビのアナウンサー、桑原征平さん。
今はフリーになっても元気で活躍されてるらしいのは、毎週聞いてるABCの「マサララジオ」でサニー・フランシスさんが何か彼をネタにしていることで伺えたのですが(笑 サニーさんも征平さんもハ電球頭ということで)
先日とつぜん(?)届いた朝日新聞のニュースレターを覗いてびっくりしたのです。実は彼のお父様が中国大陸へ出征し、壮絶な体験を繰り返して、こんなにも変わり果てた人間になってしまった、ということに。
〈記事:https://www.asahi.com/articles/ASS2M62WVS1MUTIL031.html
有料サイトなので、以降タダで読めないところを要約。

「復員後の父は警察に復職しましたが、人が変わったように、荒くれ者になっていました。あまりに問題ばかり起こすので左遷され、警察を辞めました。私が生まれる前の出来事ですが、酒を飲んでは私にも「悪いヤツを斬ってやった」と自慢をしていましたね。警察を辞めた後は職を転々とし、どれも長続きしなかったようです。母が不自由な体を引きずって働き、家計を支えました。」

毎日がDVの連続。
しかし「こんな父ですが、外面は良かった。近所の人はみな「桑原はんはええお父ちゃんや」と言っていた。酔ってちゃぶ台をひっくり返すおやじなんて、あのころは珍しくもありませんでしたから。」
「中学生になり体も大きくなると、殴られることはなくなりました。ただ、母だけは別でした。ボコボコにされて「お岩さん」のようになった母の顔、年老いるまで何度見たことか。」
「中学のころだったかな。近くの風呂屋で体を洗っていてふと鏡を見たら、いつの間にか父が後ろにいたんです。ギョッとしたら父が一言、「お前、きれいに体洗うな」。それがほんまに、生涯一度の褒め言葉でした。今でも風呂に入ると、それを思い出します。」
「父は76歳で亡くなりました。内臓もボロボロだったようです。
ようやく死んでくれたか、もうええわ――。当時はそれしか思いませんでしたね。」
「葬式の前のことです。母が「征平、祝電どこいった?」と聞くんです。「いやいやお母ちゃん、祝電ちゃう。弔電やで」と思わずツッコんだら、「祝電やがな。うれしいやろ。父ちゃん死んで」と。確かに誰も泣いていませんでした。
お父ちゃん死んでやっと安心しよったな、ついに本心出たなと、兄弟で大笑い。ほんまに、なんでもっと早く言わなかったのかなあ。「お父ちゃんは必ず変わる」と最後まで言い続けていましたから。」

「2012年、その母が亡くなりました。遺品を整理していたら、1冊の本が出てきました。表紙に「陣中日記 桑原栄著」と書いてある。」
「父は生前、戦争の話はまったくしませんでした。だから、父の従軍の記録を見てびっくりしてしまった。どうやら、父が戦地で紙切れに書きためた従軍記を、母が出版社に持ち込んでひそかに製本していたらしいんです。数十冊作って親戚や知人に配り、1冊だけこっそり手元に置いていた。」
「200ページほどの本、一気に読みました。後にも先にも、あんなに速く読んだ本はありません。おやじ、何人殺しとんねん……。こんな、とんでもない経験しとったのか。苦労してたんやなぁ。もう、ショックでした。」
「揚子江で船から下りた瞬間に銃撃され、さっきまで隣で話していた戦友が鉄かぶとを撃ち抜かれて流れていったそうです。」
「民家に押し入り、水がめに隠れていた中国人を引きずり出した。上官に「桑原やれ」と言われたが弾が出ない。ほっとしていたら、「弾が出ないなら銃剣で刺せ」。そのときの手の感触が、書いてある。」
「強烈だったのは、中国軍のトーチカ(コンクリート製防御用陣地)を攻撃した時の体験談でした。山の上にあるトーチカに向けて攻め上っていくのですが、上からはバンバン撃たれる。弾も水も補給がないまま攻撃を続け、味方もほとんど死んでしまった。ようやく陣地に飛び込んだら、中国兵が8人か10人か、死んでいたそうです。足を鉄の鎖につながれて逃げられない状態で。」
「その光景を見た父は「愕然(がくぜん)とした」と。「中国兵も日本兵も、二等兵は大変や」というような同情を従軍記に書き残しているわけです。そんなことが次から次と、つづられていました。」

「言語に絶する壮絶な経験が全部、おやじのトラウマになって、人間変わってしもたんやなあ。ようやく父の気持ちの一端が分かった。こら、しゃあないわと。「戦争で変わらはった」という母の言葉が、初めて腑(ふ)に落ちたんです。」
「陣中日記は私の人生の転機でした。「最低のおやじ」と、戦争トラウマがつながった。あの本に出会わなければ、いまも許していないでしょう。兄にも「こんなこと書いとるで」と教えました。仰天していましたよ。」

ラジオ番組でこれを朗読するコーナーを設けた。
「たくさんの反響がありましたよ。「うちも同じです。父は戦争の話を一切しませんでした」という声ばかり。元兵士はみな、家族に話すのもはばかられるような経験をしたんでしょう。「父は人が変わったようでした」という人も大勢いた。」
「戦争から帰った兵隊は何百万人といます。いろいろな家庭で、うちと同じようなことがあったんちゃいますか。」

「母は生前、言っていました。戦争で死んでしまった兵隊やその家族は可哀想や。生きて復員した兵士も、その家族も地獄や。戦争いうのは、生きるも死ぬも地獄やと。ほんま、その通りですわ。」

結局、あまりに考えさせられることばかりで要約できなかったのですが。
先日レビューした戦災孤児たちのように否応なく戦争の「被害者」になってしまった痛ましいことも居れば、元兵士たちのように「加害者と同時に被害者」になった人も居る。それはたとえば映画では米国の「ベトナム戦争もの」で盛んに描かれてきたけど、邦画は果たしてどうだったのだろう?僕が知る限りでは21年前に観た坂口安吾原作の『戦争と一人の女』で、村上淳演じた連続レイプ魔が中国戦線帰りの男だったことくらいか。

なぜ今までこういうことが語られなかったのか不思議でなりません。
と、同時に二重三重に驚かされるのは、お母様があれだけ虐げられながら夫を捨てなかったこと。それどころか「死んでせいせいした」のにも関わらず、彼の従軍記を編集して私家版にしたこと。これは、死線を幾つも潜って生還した夫への敬意があったのでしょう。「昔の人」はかくも強かった、と言っていいのか・・・?

たまにしか記事を読まない新聞サイトで勿体無いな、と思ってもサブスクしているかいがありました(笑)
実はこの記事は連載企画で、もう10回以上続いている。もうひとり驚いたのが武田鉄矢さん。彼のお父さんも征平さんと全く同じ!深い確執があったことも。
https://www.asahi.com/articles/ASRCX624QRC8UTIL026.html

征平さん、いつまでもお元気で。(パートナーは「マサララジオ」でも務められてる小寺右子アナウンサー)
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