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【第12回フランク永井歌コンクール告知】
2024(R6)年3月16日(土)17日(日) 大崎市松山体育館
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フランク永井 歌コンクール official サイト
https://f-nagai.m-machikyo.com/
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片岡義男は実に多彩な方です。才能の幅は広すぎて追えませんが、音楽界について独特の視点で突っ込んだエッセイはいくつも読ませてもらいました。
「歌謡曲が聴こえる」は書籍になっていますが、元は「新潮」に連載されました。2012年9月号には「低音の魅力、フランク永井」が第4回で記事にされています。
フランク永井については、多くの方が記事に取り上げていますが、片岡の記事はフランク永井の活動の全般について、まとめて紹介しています。それがなかなか的を得ています。
この記事の一部を文字起こしで採録させてみます。著作権関係でマイナスに影響するような場合はご指摘ください。書籍にする際には、元の原稿にそうとう手を入れて洗練されています。
全体でB5版で8ページに及びますが、最初の2ページは「サラリーマン三種の神器」という小見出しで、タバコについて延々と書かれています。
二番目に「有楽町で逢いましょう」の小見出しで次のように記載しています。オリジナルの方の文章です。
【フランク永井のLPジャケットには煙草を指先にしている写真が多い。たばこは動くアクセサリー、というキャッチフレーズを見事に体現している。個人的にも彼は煙草を好んだのではなかったか。1956年の「フランク永井ゴールデン・シリーズ」という二枚組LPのその1には、見開きジャケットの内側にある写真を中心にした4ページのなかに、自宅で洋酒を前にくつろぐ彼の、満足そうに煙草を喫っている写真が二点ある。1966年の「魅惑の低音フランク永井ベスト・ヒットでは、カラーでとらえられた上半身の彼が、左の親指、人指し指、そして中指で、火のついたタバコを掌のなかへ、なかば巻き込む持ち方で持って、ご機嫌な表情だ。この二枚組LPも見開きジャケットで、なかは8ページある。弁慶橋で撮ったカラー写真でも、彼は左手の中指と人差し指に火のついた煙草を挟んでいる。1968年の「夜霧のブルース」というLPジャケットの彼は、胸の前に掲げた右手の中指と人差し指のあいだに、やはり火のついた煙草をはさんでいる。
フランク永井の煙草は絶対に洋モクだと僕は思う。1963年にはアメリカのスチュードベイカーという自動車に乗っていた人だ。彼のレコードデビューとなった最初のシングルは、1953年の「恋人よわれに帰れ」というアメリカのジャズないしはポピュラー・ソングだった。そして最後の録音となったのは、1985年の「あなたのすべてを/まわり道」というシングルだった。活動歴30年の最初の少なくとも20年間は、戦後日本の煙草の時代と重なっている。新幹線のこだまに禁煙車両がつけられたのは1975年のことだった。
国産で最初のフィルターつき煙草はすでに書いたとおり、1957年のホープだった。フランク永井にとって最初の、そしてひょっとしたら最大のヒットとなったのは、同じ年に発売された「有楽町で逢いましょう」という歌だ。そごうは検討を重ねたすえに、有楽町に出店することを決定した。まだ戦後の面影が残っていた有楽町とその周辺を、新たな魅力ある地域へと転換させることを、有楽町そごうに有利に作用させたいと考えたそごう宣伝部は、有楽町で逢いましょう、というキャッチフレーズを作り、いまで言うところのキャンペーンを開始した。同じ時代に日本でも公開されたアメリカ映画「ラスヴェガスで逢いましょう」の題名をそのまま流用したキャッチフレーズだ。
日本テレビはそごうの提供で「有楽町で逢いましょう」という番組を開始した。当時としては多方面におよんだ宣伝キャンペーンは功を奏し、1957年の5月の開店に向けて有楽町への庶民の期待は高まり、有楽町は東京の新たな集客地域としてイメージのなかに浮かびあがった。そしてそのイメージは現実となった。開店の初日には30万を超える数の客が、有楽町そごうに入った。フランク永井の歌った「有楽町で逢いましょう」は11月に発売され、大ヒットとなった。
歌謡曲のなかに歌われるのは架空の世界だったはずが、この歌に関しては、少なくとも外面的には、最初から現実と合体していた。当時の僕は高校生で、こんなことはなにひとつ知らなかったが、大学生になってから、歌詞の中にある「ビルのほとりのディールーム」を、現実と照合して友人たちと笑ったことをいまも記憶している。JRの高架とは反対側の、そごう一階の歩道に面して喫茶店のような店があり、透明で大きなガラス窓ごしに、なかからは外を、そして外からはなかを見ることができた。笑った理由は、現実より歌のほうがまだ強かったからだ。現実のティールームはそれひとつだけのそれっきりだったが、歌のなかでは、イメージは強烈に広がって歌ぜんたいを支えていた。
1957年に発売された「有楽町で逢いましょう」は1962年に録音されなおし、それ以後いたるところで頻繁に耳に届いたこの歌は、録音されなおしたヴァージョンであろうということだ。両者を僕は聴き比べてみた。1957年のものは明らかに1950年代であり、再録音された方はぜんたいにわたって金一で、特定の時代を感じさせないようになっている。録音しなおしたとは、古くなったものを新しくした、ということに他ならない、と僕は推測する。1957年から1962年までに5年のへだたりがある。1957年のヴァージョンが1950年代前半の感覚のままに作られた可能性は大きい。そしてそれは、5年後には約に立たないと判断されるほどに、急速に古くなった。
歌は世につれ、という捉え方だと、昔のヒットソングをきっかけに当時の自分を思い出し、あの頃はそんな歌がヒットしたっけねえ、で終わってしまう。いったん世につれたなら、歌はいつまでも世のどこかにある。あの頃があの頃で終わり、いまはとっくに違う、などと思ったらそれは大きな間違いだ。あの頃に始まった大衆消費時代の、わかりやすくしかも充分に遠い一例として、有楽町そごうの開店はいまでも語られるが、始まったのは実は悲惨な世であり、悲惨さも世も桁違いにふくれ上がって、いまも続いている。
フランクなギアの歌い方は実にきれいだ。丁寧で折り目正しく、優しく穏やかで、角の立ったところがどこにもなく、すべて丸く深く柔らかい。「魅惑の低音」という言葉が彼には常についてまわったようだ。低音という言葉に関しては、石原裕次郎のほうが先かな、と僕は思う。彼が初めて主演した「狂った果実」という映画の仮名に、横浜のクリフサイドという店で彼がステージでいきなり歌う場面がある。客のひとりとしてそれを見ている北原三枝が「いかす低音だわ」と、うっとりした表情で言う。正視に堪えない、と評する人と僕はほぼ同じ意見だが、歴史的には貴重な場面だろう。
低音とは何だったか。その時代に発生したなんらかの価値であったことは確かだ。1950年代後半から1960年代なかばにかけて、日本ではLPの録音技術がピークに達した。裕次郎の場合だと、素のままの歌い方に巧みなエコーという、いい素材と高度な技術の合体だった。フランク永井に関しても同じだろう。彼は高いところの音を、歌詞の言葉として何の無理もなくきれいに出すことができた。高いところが美しく出てこそ、低いところへ降りていくときの巧みさが、それぞれの情感となる。】
今回はここまでです。いかがでしょう。片岡の鋭い視点には驚かされます。主題が煙草かと思うほど延々と論じながら、フランク永井に移ってくる。そして低音の魅力について、特にフランク永井の低音の魅力は、彼の高音から低音への、同じ声質をたもったままの、スムーズな歌唱にあることを指摘しています。
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