介護殺人を描いた「ロストケア」、先日観てきました。
予告編では松山ケンイチ扮する殺人者・斯波が相模原やまゆり園事件の植松某を連想させるキャラクターに見えたので「これはマズいかも」と身構えてたんですが、そこは杞憂でした。
斯波をモンスターでなく「人の目に触れないところでもがき苦しみ、疲れ果て、誰からも助けの手を差し伸べられなかったが故にたどり着いた結論」に基づいて行動した、哀しき殺人者として描いていることに一種の安堵感を覚えましたね。
もし彼が植松のような、安っぽいナチ的優生思想に凝り固まったゲスとして造形されていたら、とても正視に耐えない作品になっていたでしょうし、また、そうした思想に共鳴する人間を新たに生み出す危険も生じたでしょう。
斯波が実父の絶望的な介護の経験から連続介護殺人に手を染めるに至るプロセスがかなり同情的に描かれているため、逆に「もう介護なんて必要ない。そんなことに社会的資源を使うくらいなら斯波がやったように認知症高齢者なんて『始末』しちゃえばいいだろう。その方が家族も楽になる」と感じ取る向きもあるかも知れません。
本作の作り手は、そこは明確に否定しています。
斯波の行為は作品中、少なくとも二人の人間を不幸にしています。
一人は、公判中に斯波に向かって「人殺し!父さんを返せ!」と叫んだ女性。
たった一人で父の介護をしながら自らの生計も立てなければならない彼女は確かに側から見たら「もう限界だな」と思えるほど追い詰められて見えます。でも彼女にとっては父親は「さっさと死んでほしい邪魔者」ではなかったはず。他人がどうこう言える筋合いはないし、ましてや勝手に命を奪っていいことにはなりません。
きっとあの女性は「父を護れなかった」ことをこれからも後悔しながら生き続けなければならないでしょう。
もう一人は、斯波に憧れ、そしておそらくはそれ以上の好意を感じつつ訪問介護の仕事を頑張ってきた、由紀という女性。
彼女は斯波の逮捕と、彼の行為の凄まじさにショックを受け、訪問介護事業所を辞めて風俗嬢になります。彼の犯罪とその背景を思い知らされ理想を打ち砕かれた由紀はもう2度と介護の仕事に戻ることはないでしょう。彼女もまた、斯波の被害者と言っていいのかも知れません。
人の生涯の最終局面で、誰もが嫌でも向き合わねばならない、老い。
その段階で自分の身に、そして自分の家族の身に、何が起こるのかは予測できません。
しかし、何が起ころうとその先にあるものを選択するのは自分自身であり、社会はそれをサポートせねばなりません。そうでなければ、社会を構成し維持する意味がありませんから。
困難な立場に立たざるを得なくなった人(「弱者」とは、本来そういう人のことですよね)が容易に、そして気兼ねなくセーフティネットにアクセスできる。日本がそうした社会の構築に今以上に力点を置けば、これから、斯波のような人間を生み出す可能性は減るのではないでしょうか。
この作品が多くの人の目に触れ、そのことを感じ取ってくれることを願って止みません。
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