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2022年04月20日18:38

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2分小説『姓』

「ごめんなさい」
 顔を伏せて彼女が一言。
「結婚を前提に――」
 と言い淀み唇を嚙み締めた一瞬に差し込まれた台詞”ごめんなさい”呻くような声で。
「どうして……」
 僕には確信があった。彼女と過ごした時間、まだ数か月だけど彼女の笑顔、声の色合い、重ねた肌の温度、すべてが一筋の光となって二人の未来を照らしていた――少なくとも僕はそう確信していた。なのに……夕暮れ、公園の街灯が順にぽつぽつ。
「理由を聞かせてくれ」
 絞るように言った。
「言えない」
 切り裂く音。
「どうして?」
「貴方を傷つけたくない」
「もう傷ついている。理由を教えてくれないと、一生癒えない傷を背負って生きるはめになる。お願いだ。僕と結婚できない理由を教えてくれ」
 遠い溜息に乗せ、瞳が覚悟を問う。僕も瞳で応える――キカセテクレ。彼女の肩がほどけ、機械仕掛けの唇、とうとうと語り出す。
「画数」
「え?」
「貴方の苗字の画数……こんなこと言うと変に思われるのは分かっている。でも画数が嫌、私の苗字が貴方のに代わると私の人生、大きな負担が延し掛かる、私は耐えられない。そういう未来しか見えない」

 絶句。

 スピリチュアルな傾向があるな――とは思っていた。占いやジンクスにひどく拘る場面も多々見てきた。その度に冗談めかし一笑に付すと、彼女は真剣そのもので、「自分でも可笑しいと思っている、でも変えられない。多分、心の病気なのかも」と、泣きそうな顔で笑った。僕には、裏ごしされた笑顔を返すのが精いっぱいだった。

「夫婦別姓という選択肢もあるじゃないか?!」
「私だけじゃない。子供にも大きな試練を課すことになる」
 彼女は首を振る、こぼれ落ちた言葉――でも愛してるの。聞こえないように呟くのが聞こえた。

「信じてくれ!迷信や占いよりも、僕を、今君の目の前にいる僕を、世界中で誰よりも君のことを想っている僕を、信じてくれ!乗り越えよう!」
 手を差し伸べた。街頭に照らされた自分の手、自分の物に見えない。何か無機的な構造物に思えた。彼女は微動だにしない。いや、唇だけがやはり無機的にわなわなと動いて――
「違うの、そういうことじゃないの。貴方には理解できない。本当にごめんなさい」
 膝が二つとも地面に落ちた。完全にタイミングを逸した婚約指輪、いっそこの瞬間にポケットから落ちやがれと――
「サヨウナラ」

 ***********

 彼を傷つけてしまった。本当は付き合う前から分かっていた。でも、ひょっとしたら変えられるんじゃないかって、淡い幻想だった。涙が腺で爆発しそうになっている。こんなに熱い予兆、初めて。多分、悲しいよりも愛しいから。

「ごめんなさい鍛治屋敷さん――愛してるでも私には、貴方の苗字の画数は多すぎる。一生涯、書き続けるなんて、どうしても無理なの」
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