「偶然です。恐ろしい偶然です。恐ろしい偶然が、いくつも重なってしまったんです・・・」。
「犬神家の一族」のラスト近くでの、犬神佐清の台詞です。
人が、恐ろしい災厄や不運に見舞われるというのは、まさにそうした「偶然」の積み重ねの結果。
でも、実際に酷い目に遭った人は、それを偶然の帰結として受け入れられるでしょうか?
その災難を「何か」のせいにして、自分や他人を責めたりはしないでしょうか。
マッツ・ミケルセン主演の本作は、理不尽な運命や事象によって傷つけられたり、心に大きな穴をあけられてしまった者たちが、他者との関わりの中でその穴を埋めていく、「癒し」の物語でした。
この作品、単純に作ってしまえば「妻を事故を装った殺人のとばっちりで失った軍人が、自らのスキルと協力者の情報を得て復讐を遂げる物語」に仕上がったでしょうが、実はそれは本筋ではなく、傷ついた人々が集まっていくきっかけに過ぎません。
主人公に協力を申し出る三人の情報スペシャリストは、自分の飲酒運転のせいで娘と自らの右腕の機能を失ったり、(はっきりとした説明はないですが)虐待によるトラウマに囚われていたり、対人恐怖症と肥満のためにコミュニケーション不全に陥ったりしています。
そんな彼らが主人公の復讐に協力を申し出たことから、主人公の娘やそのボーイフレンドも交え、奇妙な疑似家族の関係が育まれていくことになります。
特に印象的なのは、途中からこの関係の輪に入って来る男娼の青年。
ウクライナから連れてこられたというこの青年は最初、仲間に入れてもらうための代償としてセックスを提供しようとしますが、やがて、そんなものは必要ないのだということに気づきます。そしてその共同体の中で家事手伝いをしていくうちに、彼は少しずつ心根の良さ、優しさを発揮し始め、なくてはならない存在に変わっていくのです。このプロセスがとても温かく描かれていて、胸に沁みます。
やがて彼らの復讐行為は相手の逆襲を受けることになるのですが、その直前に主人公とその一党は衝撃の事実を知る事に。
ここが実は、この作品の眼目なんですね。
今まで事実だと思っていたものが、事実でなかった。
自分たちの行動の原点であったものが、根底から否定された。
そのとき人間は、それを果たして受け入れることができるか。
人というのは厄介なもので、何か嫌な事、忌まわしい事があった時、必ず「怒り」をぶつける対象を欲します。何かに八つ当たりしないと自分を保てなくなります。
自分に非はないのに、何も悪い事をしてないのに、降りかかってきた災難。その理不尽さに押し潰されそうになると、とにかくそれを「自分以外の何か」のせいにして、それを叩き壊さないと気が済まなくなるのです。
そんな暗い衝動を、いったい何が抑えてくれるのか。何が心の爛れを癒してくれるのか。
簡単に答えは出ません。しかし、少なくとも「人を癒し慰めるものは人でしかない」と言う事はできるでしょう。
この作品はそのことを「残酷で、ちょっと奇妙だけど、ほんの少し温かい物語」という形にして描いています。
心がささくれてしまいがちな「いま」に相応しい作品だと、思いました。
ログインしてコメントを確認・投稿する