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2021年12月08日23:45

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『ison d'etre』

 日の光を透かし輝いている若草色の物体。俺は触覚でそいつの横っ腹を叩く、ケツから透明な液体が漏れ出る。そいつもまた輝いている。俺は牙をたたみ、そっと透明にあてがい啜った。
「甘露」
 甘い、蠱惑的に甘い。六本の脚の隅々までが痺れる心地。視界がほのかになる。脳が揺れる。この一滴を飲むために、俺はアブラムシを天敵から守っている。しがない働き蟻、財産はこいつだけ、この緑の塊、植物の汁を啜り、甘い蜜をケツの穴から出す蜜密造機。
「これに感情はあるのだろうか?」
 ただただ生存しているだけに見える。横っ腹をどやす。蜜が出ない。もうこの茎の汁は吸いつくしてしまったようだ。俺は前脚でこいつを掴み、辺りに天道虫がいないことを確認すると、慎重に隣の茎まで運んだ。
「吸え、そして出せ」
 命令するまでもない。勝手にやってやがる。茎に食らいつき、音も立てずに汁を啜っている。俺は、こいつを、こいつの命というか。生命の在り方を軽蔑している。いや、命とさえ見ていない。モノだ。薄汚く憐れ。穢れた物体――意思の無い生命という時点で、「生きる」という行為を冒涜している。そう思っていた。しかし、こいつを担いで芹の葉に飛び移った時、それはいつも通りのありふれた一瞬だったのだけれども、風か太陽が俺の脳に天啓を寄越したのだろうか?俺が侮蔑して止まないこのアブラムシ、そいつにこんなにも執着している俺自身に、一体何の意思があるというのか?こいつを運んで汁を吸わせて蜜を出させて、嬉々として飲み干している俺は、俺は、俺は、一体……この物体と比して、僅差でも優位といえる生命の意思たるものを所有しているのだろうか?
「いや、この苦悩があるからこそ、俺はこいつとは違うのだ!」
 青空に絶叫したが、虚しかった。そうだ。俺はこいつと同じだ。いや、こいつの排泄物を食らって生きている俺は、こいつ以下だ。こいつらアブラムシを俺は、「蟻がいないと生きていけない存在」と定義していた。俺は?「アブラムシがいないと生きていけない存在」、事実そうなのだ。
 志というか正義のようなものを、俺は持ち合わせているつもりだった。つまり、「ひ弱なこの昆虫を俺は敵から守ってやっている」と。自分の日常、ただ蜜を得るための労働に、大義を求めていた。それが、それが、それこそが、最も破廉恥な思考。俺は、依存しているのだ。この生命体と物体の中間のような緑の塊に。俺のレゾンデートル(存在意義)は、存在意蟻(イゾンデートル)だ。

 明日、俺はこいつを、一際高いセイタカアワダチソウの先端、青空にぶっ刺さった切っ先にに置き去りにする。青空に捨ててやる。秒で天道虫がこいつを攫っていくだろう。俺は、見殺すつもりだ。それが、罰だ。俺への、罰だ。何も守れないことを知り、何も失わないことを悟り、俺は群れへ帰る。俺と同型の働き蟻のいる巣穴へ。干乾びた蚯蚓を巣に運ぼう。欠けた飴玉を転がしてやろう。皆と一緒に、そうすればもう、何も考えなくて済む。
「それこそが蟻のままってやつだろ?」
 緑色に話しかけたが、恐怖も絶望も伝わってこない。ただ、ふるふると腹が揺れ、何か笑っているように見えた。
「実はお前、答えを知ってるんじゃないのか?」
 寒風が味のない露をヨモギの葉の縁に並べていている。
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