手術台に寝ころび、天井を見上げている。ライト、無数の光、分裂した太陽、橙の香り、と、消毒液、博士の瘦せこけた頬、闇、ピカピカと、メスが光る。金属が鳴っている。何に接しなくとも、一人でに。
「注射をする」
博士の声、金属音と和し、不協の奏、アルコールの匂い、いや、何か知らぬが薬品の香りだ。尖っている。鼻腔に、強烈に刺さる。博士が笑うと、注射器が躍った。
「麻酔ではない」
俺は目を見開く。
「アドレナリンだ。致死量のな」
致死量?
「心配は要らない。必要なのだ」
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冴えないサラリーマンだった。好きでもない仕事に人生を奪われ、もう愛していない妻の不倫に目を瞑る。子供がいないことが幸いだった。俺の劣化コピーにはきっと、こんな平凡な地獄は耐えられないに違いない。
「……来月の25日」
と答えた――紫煙に隠れる女の影に「次、いつ来るの?」と聞かれたから。「次、いつ逢えるの?」とは聞かない。正直さに笑った。40オーバーのデリヘル嬢、ヤニで黄化した前歯が、ベッド脇のスダンドライトの色味と混ざり、手術用のライトとオーバーラップする。
**********
「私はサディストではない」
博士が言った。
「感情は無意味だ」
とも言った。
「だがお前には必要だ、特に――」
眼鏡に閃光。
「怒り」
注射針が腕に刺さった。
「さぁ、思い出せ」
**********
「この人痴漢です」
腕を掴まれているのに、自分のことではないと思っていた。辺りを見回したくらいだ。
「痴漢っ!」
化粧にヒビが入るほど顔を顰め、睨む女、般若の面?
「お、俺?」
「痴漢っ!」
「違う!」
「間違いないの!パンツの中に手を入れてきた」
「間違いだ!見ろ!右手は吊革、左手は鞄を持っているだろ」
「嘘嘘嘘嘘」
「何が嘘だ?!見ろよ」
「痴漢よ!この人痴漢よ」
「いい加減にしろっ!」
降りるはずの駅ではないが降りた。
「痴漢よー!」
般若が追いかけてくる。二三人の男と、駅員を引き連れて。
俺は逃げた。
線路に降りて走った。
誰だってそうするさ。
無実なんだ。でも、世界は不条理。俺が知っているのはそれだけ。走った。
呼吸が途切れ、耳タブから直接心臓の音が聞こえた。
「誰かー、捕まえてー!」
錆びたフェンス、あと3m、剥がれたライムグリーンの塗装、あれにしがみつけば逃げ切れる。そう確信し。全力で振り向いた瞬間、貨物列車に蹴られた。
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「後悔しているか?」
何を?
「何故サインした?」
声が出せないのを知って聞いている。だから心の中で答えた。
(その答えは俺の下半身に聞け)
腰から下、何も無い。貨物に蹴られてどっかに吹っ飛んで行った。
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「痴漢の代償は高くつきましたなぁ」
捨て台詞を吐いて刑事が去った後、入れ替わりに白衣の禿げ頭が入ってきた。ニヤついた黒い唇がにちゃりと開き。
「脚を生やしてやろうか?」
耳を疑った。
「揶揄っているいるのか?」
「違う」
「アンタ……ここの病院の先生じゃないな?」
「そうだ」
「俺になんの用だ?」
「お前に用は無い。お前の絶望に用があるのだ」
**********
血管が浮き出る。ミミズのように激しくのたうっている。腰が熱い。感覚を失ったはずなのに、熱い。
「もっと怒れ!」
天井のライトが、太陽のようだ。
「いいぞいいぞ」
笑う。
「では、最後の注射だ」
笑けるくらい大きな金属の注射、キャスタ付きの機械が近づいてくるそのアームの先端で鈍くそして冷たく。
「お前に相応しいのを選んだ」
知っている。あの針の奥には、溝鼠の遺伝子が蠢いている。俺の躰を――別のものに変異させるために、カフカを読んだことがある。あれは喜劇小説だ。これから起こるのも愉快な参事。俺は、俺でなくなる。それが望みだ。俺は、俺であることにずっと違和感を感じていた。体も心も人生もすべてにしっくり来ていなかった。だから怖くない。失うもの?マイナスを乗算するだけだ。
「お前は鼠だ!もっとアドレナリンを滾らせろ!鼠!」
血管が皮膚から飛び出した。青紫のゴムチューブ。びゅんびゅん鳴ってる。
「今だ打て!」
ボールペンよりも太い針が、俺の腹に刺さった。
「いい反応だ。非常にいい。成功だ。成功だゾ」
色彩が失せ、世界が灰色になった。俺は生まれ変わった。改造人間として――
「鼠怪人ドブウスよ!立ち上がれ!」
そして――
ライダーを倒すのだ!
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