1匹のゴキブリと同居している――といっても、部屋は別々、彼には紙製の特別な部屋を与えている。場所は冷蔵庫の下。粘つく床に全身を絡め捕られ、動くことはできない。でも蠢くことは出来るようで、眼に見えない単位で足掻いている。触角のみが、みょんみょんと無暗に揺れてる。絶望を振り払おうとして。
同居して20日ほどが経った。たまに彼の様子を伺うのだが、驚くことにまだ生きている。大した生命力だ。でも弱ってるのだろう。心なしか触覚の振れ幅が狭まっているように見える。
40日ほど過ぎた或る日、レジ袋から牛乳を取り出し、冷蔵庫にしまう。足に漏れ落ちた冷気、ふと彼のことを思い出し、覗いてみる。
「……生きている」
手を振るように、微かに触覚を持ち上げた。凄まじい生への執念。いや、執念かどうかは分からない。ただ本人すら望まぬ生命力が生存を長引かせているだけで、本当はとっくに終わりを求めているのかもしれない。
胸の奥に、高揚があった。それは冷蔵庫灯のように、胸の内側を照らす。
「いつまで生きるんだ?」
ずっと「いつ死ぬかいつ死ぬか」と、待ち望んでいた彼の死、それが裏切られるたび、どこかで羨望というか、畏怖の念、小さな敬意のような感覚が始まるのを感じていた。何らかのステータスにおいて、僕は彼に劣っている。そういう自覚があった。
憐憫ではなく、やはり初心を引きずる子供じみた残虐性かもしれない。いつかのタイミングで、「いつ死ぬか」は、「いつまで生きるか」にすり替わっていた。爪楊枝の先をヨーグルトに漬け、そいつを彼の口元にあてがうと、聞こえはせぬが大きな音を立ててヨーグルトを啜るのが確認できた。
そうして食事を与え続けた或る日、僕は自分の間違いに気付く。
――彼だと思っていたが、実は彼女だった。
お尻から、茶色い塊――柿の種を丸こくして筋を入れたような塊が飛び出している。そいつはやはり、粘着シートにべったりと張り付いているのだが、きっとその中で、無数の命が胎動しているのだろう。
夜の海原のような感情面から、飛び魚のように畏怖の念が突び出してきた。それは、言えば恐怖に他ならない。
つまりこの先、あの柿の種は割れ、裂け目からわらわらと新たな命が這い出てくる。当然そいつらも粘着シートに絡め捕られるわけだが、僕はその新たな命達にも同じく餌を与えて、生かし続けるつもりなのだろうか?
成長し母と同じ立派な体躯に育つまで養い続ける?その頃には多分母は絶命し、形骸化して、モニュメントのように座標0に居続ける、地平線も水平線も無い世界で。
「それはもはや、小さな地獄ではないか?」
これ以上、命を侮辱すべきではない。僕は彼女の住処を冷蔵庫下の闇ごと引きずりだし、ごみ袋に翳す。
「囚われ自由も光もなく、ただ永らえるだけならばいっそ、こうするが善い。そうだろ?」
独り言のように問えば――
「お前も同じようなものだろう?」
と、聞こえた。
肯定も否定もできずに、僕は彼女達の命を袋に落とす。
「違う」
呟き、後を追うように袋へ。
透明な粘着物が絡まる肌感、目を閉じると様々な笑顔が浮かぶ。冷蔵庫下のような湿っぽい闇の中に。
「お茶とアイスを買いに行こう」
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