白い壁、六畳ほどの部屋、窓は無い。最後の記憶は麻酔医の脂ぎった涙袋、僕は手術を受けていた筈、どうして?こんな部屋に僕はいるんだ?集中治療室?いや、違う。違うだろう。部屋の中にはベッドが無い。事務机とパイプ椅子、そして扉が一つ。
扉に立つ、そっとノブに触れ、ゆっくりと力を伝える。が、かちゃりとはいうものの、押しても扉は開かない。
「すいませーん」
「すいませーーん」
「すーいーまーせーん」
大声で誰かを呼んだ。残響する声、歪ながらフェードアウト、壁を乱反射して、揺らぎを失う。
――ここは拷問部屋か?記憶を呼び戻す。僕は、ただの会社員。普通のサラリーマン、トラブルに巻き込まれるような人生は送っていなかった。生前は平穏に暮らしていたのだ。だが病気を患って手術を受けることになった。そうして麻酔医の涙袋、あの中にはきっと涙では無く麻酔薬が詰まっている。最後の映像にはふさわしくない。せめて看護婦さんのお尻でも目に焼き付けながら意識を失うべきだった――生前?
生前……
「ここは死後の世界かも知れない」
時計は無い。でも何時間も経って、時間とともに実感が湧いてきた。お腹も減らないし、トイレに行きたいとも思わない。呼吸は正常、脈もある。でも生理現象が伴わない。こみ上げる実感――ここはきっと死後の世界だ。だとすればここは、天国なのか?地獄なのか?
机に座っている。もうずっと座っている。体感では3日くらい座っている。正確には椅子に座っている。机の上に、クリーム色のプラスチックの直方体がある。大きさは煙草の箱を2つ重ねたくらい。箱の上に、赤いボタンがある。ボタンの中央は、なだらかに窪んでいる。座って正面の壁に、金属のプレート、黒い印字――「押すな」と書かれている。
「ここは地獄だ」
体感7日くらい経って、ようやく結論に辿り着いた。色々な思惑があった――ここは天国へ案内される前の待合室なのではないか?とか、このボタンを押すか押さないか、最終試練を受けている、とか。もしくは、麻酔中の譫妄だ、など。でもきっとどれも違う。ここは地獄だ。この無意味な時間はきっと、永遠に続くのだ。それが僕に科せられた罰。
「お前はこれこれこういった罪により、こういった罰を受けるのだ」
という、説明すらない罰、地獄。反省と内省を行わざるを得ない、ただの時間の連なり。僕の罪はきっと、無意味に時間を過ごしたという罪。
「押していいですか?」
誰に聞いているのか分からない。が、きっと誰かが僕を見ている。監視している。そいつに向かって聞いてみた。赤いボタンの窪みに、指を押し付けてみる。
「押しますよ?」
再度聞いた。が返事はない。もうどれくらい時間が経ったのだろうか?数か月?いや数年?押すなと書かれたプレートそして赤いボタン。ここは「押すな地獄」か?押すことを我慢し続ける地獄なのか?
「押そう」
そう決意した。もうたぶん3年以上は我慢したはず。このままでは精神が耐えられない。押してしまおう。ひょっとしたら、ボタンを押した途端に、ドアが開き、その先に天国があるかもしれない。だが僕は逡巡する。
「もしも押して何も起きなかったらどうする?」
それは……それは、それこそが本当の地獄だ。もしもボタンを押して、何も起きなかったら、後には希望も何もない。ただ無意味なボタンと警告文、そして白い壁と時間だけが永遠に僕という存在を包み込んでいるだけの世界になってしまう。
もう数十年は経った。僕はこのボタンを、希望の一種だと思っていた。このボタンを押せば何かが変わる、変わるかもしれない。そういった感覚だけが、心の拠り所だった。でも実際には違う。このボタンこそが、絶望だ。このボタンさえ無ければ、僕は観念し、過去の記憶を反芻することに集中できた。でももう忘れてしまった。何もかも、生前の記憶は、ここでの空白の時間に押し出されて、もうほとんど残っていない。ボタンの記憶しかない。
このボタンが何のメタファーか分からないがきっとこれは、生前僕が押すことのなかったボタンだ。何かを変えるために、失う覚悟を持つことができなかった。ボタンを押さなかったが為に、誰かを傷つけ、自分のQOLを棄損し、ただ無為に時間を過ごした。これはきっと、そういう僕の駄目な部分の象徴なのだろう。
「押そう」
もう何度呟いたことだろう。
俺を見ている奴はきっと笑っている。俺が「押そう」と呟くたびに、どっかで誰かが笑っている。モニターの前で大爆笑している。俺は――ん?俺は俺のことを俺って言ってたっけ?僕って言ってなかったか?いや、どっちでもいい。ボタンだ。ボタンをどうするかだ。
このボタンを押した後の展開を考える。たぶんきっと何も起こらない。きっとそうだ。その時に僕は、俺の心はどうなってしまうのだろうか?壊れたように、ボタンを押しまくるだろうか?一億回くらいおせば、何かが変わると信じて、それは、嫌だな。そっから先は、実験用のマウスだ。
数年おきに、押すという決意と押さないという決意が入れ替わる。それはこの部屋に存在する数少ない季語。
そうして僕は最近、あの人のことを思い出した。最愛の人のことを、どうして、忘れていたのだろう。空白の時間がすべてを押し出しても、あの人記憶だけはここに残っている。きっとこの記憶こそが、僕の本体だ。いや――
この記憶が本物という確証はない。僕が作り出したものかもしれない。それでも僕は、愛している。あの人……名前も笑顔も忘れてしまったが、輪郭だけがぼうと浮かんで、机の傍に立っている――そう、僕は愛していたんだ。
3万年の時が過ぎ、僕は今、ボタンに指を乗せ、発音できない名前を呟いている。
「このボタンを押せば、きっとあの人を忘れられる」
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