毎月、北浜の「生駒ビル」の地下会議室で、おもに村上春樹を読んできた読書会。
コロナ禍で中断せざるを得なくなった。
最後に開催したのは昨年の2月26日。
政府が「大規模イベントの自粛」を当日朝に突如言い出した日であった。
1年5か月ぶりに開催することにはなったが、会議室参加は、主宰者の土居豊先生、オブザーバーでビルオーナーでもある生駒さん、そしてわたしの3人だけ。
あと4人がZOOMでオンライン参加、という変則的なものとなった。
テキストは生駒さんの希望もあって「1Q84」のBOOK1,2,3。
「1Q84」は、わたしは発刊当時に読み、その後も読み返し、3年前にこの生駒ビルで読書会が2回にわたって開催されたときも再読したので、今回で読むのは4回目か。
ふと気づくと読書会まで1週間を切っていたので、大慌てで全3巻1700頁近い大部をまた読むことになったのだが、それにもかかわらず非常に面白く読めた。それは老化現象でかなり内容を忘れてしまっているから??
(mixi日記でも3年前の読書会のことを書いているので、ここではあらすじは書きません。
「BOOK1」の読書会
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1968486564&owner_id=5348548
「BOOK2,3」の読書会
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1969021592&owner_id=5348548 )
<土居さん>「1Q84」は、村上春樹の代表作と言えます。これをきっかけに村上春樹を読み始めた読者もいる。
「1Q84」以降の村上春樹は以前と別物だろうし、集大成ではないだろうか?
これを凌駕する作品を彼が書けるか・・
いま、毎日のように「ワクチン」のニュースが報道されているが、全くの偶然ながら空気さなぎをワクチンとして世間に流すんだ、という一節が文中に出てくる。
発刊当時、それをなぞるように、爆発的に「1Q84」は売れ、ミリオンセラーになった。
現実世界でも何かに対する「ワクチン」として、手に取ったのだろう。
<次に生駒さんが、論文、とでも呼ぶべきような長大な「考察」を、パワーポイントの形にまとめてノートパソコンに掲示。以下、その概要です>
<生駒さん>
BOOK1,2ではちょうど24章ずつの構成です。これはバッハの平均律クラーヴィアをなぞっている、とも言われています。
また、クラシックの新約聖書、とも言われるベートーベンのピアノソナタは32章。
BOOK3は31章ですが、最終章は「天吾」と「青豆」のジョイントで1章なので、2つにわけて数えるとちょうど32章になります。
わたしは村上春樹を読んだのは「1Q84」が初めて。
最初は面白く読んだけど、つまらない、が第一印象。彼はノーベル文学賞候補、と言われていたりしましたから、なんでこれが?と思った。
しかし「天吾」の章でわくわくして、次へと読み進むことが出来た。
「青豆」の章の物語は、天吾の書いた小説だと思う。
天吾がリライトして、青豆の物語が面白くなる。
BOOK3では「牛河」の物語が登場してくる。また、BOOK3では青豆の章で、人称がめちゃくちゃになっており、地の文で1人称が頻出している。
村上春樹の下に天吾という架空の作家がいて、天吾自身の自伝を書き、青豆の物語を書いた。物語の出発点はどこだろう?
天吾がゴーストライターとして書いた「空気さなぎ」に「盲目の羊」が登場する。
いろいろ検索すると中原中也の「盲目の秋」という詩に突き当たった。
その中に、「人には自恃(じじ)があればよい!」というフレーズが出てくる。
「自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ」という一節も。
「自恃」とは、全体主義的な社会の中で生きるとき、対抗するための必要なワクチン、そんな気がした。
ところでこれも偶然なのでしょうが、タンパク質のデータベースに「1984」というコードナンバーがあります。
これはアセチルコリンを分解する作用があります。ちなみにサリンはアセチルコリンを分解しにくくします。
村上春樹の小説は、いろんなものが何かの暗喩なのではないか?とつい気になります。
美少女「ふかえり」もローマ字にすると「FUKAERI」。
ひっくり返して「IRE」とまず読むと「憤怒」の意味になる。
作中の重要人物として「タマル」が出てきます。
旧約聖書・創世記38章に出てくる長男の妻が「タマル」。長男が死に、次男のオナンと結婚します。
BOOK3,25章で牛河が「冷たくても、冷たくなくても神はいる」とユングの言葉を引いて、タマルに殺される前に言う言葉があるが、もともとはチューリッヒ湖畔のユングの家(石の塔)の扉に刻まれている一節。
そちらのほうは「呼んでも呼ばなくても神はいる」です。
つまり、村上春樹は「cold」と「called」をひっかけて「冷たくても・・」のセリフを牛河に言わせていると思われます。
言葉遊びがあり、いろいろと疑わせて結論を書かないのが村上春樹。
柳屋敷の番犬「ブン」も、私など新聞記者を指す「ブン屋」を連想した。
「空気さなぎ」の「マザ」は作者、「ドウタ」は主人公であり、理性と意志と情念が、三匹の蛇の比喩になっていると思う。
「リトル・ピープル」は、ジョージ・オーウェル「1984」のビッグ・ブラザーと相対するもの。
リトル・ピープルの声をどう聴くのか?
声を聴く仕事は政治家の仕事ではないのか。
「公園の滑り台」は、今で言えばインターネットの掲示板みたいなもの。誰が見ているかわからない。共感する人はそっと見ている。
「麦頭」というヘンな居酒屋の店名が出てくる。思わせぶりなことを書いていて、説明しないのが村上春樹である。英語を当てて「ストロー ヘッド」とすると、愚かな、という意味になる。
実社会を理解するうえで、「1Q84」はぴったり重なる。
「老婦人」は経済界、「戎野先生」は思想、「深田保」は、社会のリーダー、「青豆」はテロリスト。
青豆は殺人者なのに、読者に嫌われないような人物設定になっている。
天吾は予備校で数学教師をしている、という設定だが、天吾にとっての数学は、村上春樹にとっての翻訳ではないだろうか?
それにしても、こんなややこしい小説を、こんなに大勢の人が読んだのか、と思う。
みんなのひっかかるところ、読みどころが違うのが、最大の魅力なのではないか。
細部に於いて魅力的なエピソードが入って、読者を引っ張っている。
<次にオンライン参加してくれたかたたちに感想を聞く>
<Oさん・60代男性、滋賀県在住>
パラレルワールドのような世界に、落ち込んだような実感があった。
青豆のように、誰かが何かをやってくれたら、救済があるのか?
青豆が首都高速で見た、エッソのタイガーの看板が、さいしょと左右が逆になっていた、ということは、元の世界に戻れたのだろうか。
アフターコロナも、元の世界に戻れない。今のこの世の中の、ある面を描いている。
この作品を村上春樹も苦しんで書いていたのか、それとも天から降りてきてオートライティングみたいなインスピレーションで書いているのか?
読むのは体力が要ります。
<土居さん>
偶数章、奇数章の同時進行で物語が進むので、天吾だけの章のみ読んでみたりする。
読者が好きな読み方で読めるように書いているんじゃないか?
<Hさん・40代女性>
牛河は、前は怖い人だと思ったけど読み通すと、可愛そうだな、と。
それは現実にもある。苦手だなあと思うと受け入れられないけど、視点を変えるとまた、違う感想があるんだと思う。
<土居さん>
どう見ても牛河は、ハードボイルド探偵のパロディ。
本来、牛河視点で、なぞの出来事を追いかけていく話だったのでは? それだと、違う真実が見えてくるのでは。
シーク&ファインド、いわばチャンドラーの「長いお別れ」をなぞっていますね。
牛河にはリサーチを手伝う協力者がいたりするので、主役が死んだら、他の人間が仕事を引き継ぐ、そんな二次創作を考えてみたりします。
<Tさん・60代男性>
実は「1Q84」をまだ読んでいないんです。余計、読みづらくなった。
簡単に読めるもんじゃないと思う。
<ごんふく>
1984年から、月が二つ空に浮かんでいる「1Q84年」に足を踏み入れる、とかいわば「トンデモ小説」なのに、構成がきっちりして細部も描き込まれているので、気にならない。
結局は青豆と天吾がすれ違いの末、めぐり逢う壮大なメロドラマ。愛があれば生きられる、ということ?
リトル・ピープル、ドウタ、マザなどよくわからなかった。
天吾が小学校の先生と、高校生になって再会するところ、お父さんを亡くして、看護婦のクミと火葬場で見送るシーンなど、読んでいて切ない。胸が締め付けられる。
そういう場面をさりげなく差しこんでくるうまさがある。
でも全体にはずいぶんと血なまぐさい。青豆は「必殺仕事人」だし、安田恭子も殺されたような示唆がある。大塚環は自殺、あゆみも殺された。老婦人の娘も自殺、牛河もタマルに殺される。
終盤で、天吾の母が絞殺されたと、牛河の独白に出てくるが、それはクミの夢とリンクしていないか?つまりクミは、天吾の母の生まれ変わりなのか?
いまならすぐに連絡がつくような場面でも、スレ違いがじれったいが、それが1984年という時代ならではだろう。
電話だと盗聴されるから、とふかえりが、TDKのカセットテープに要件を吹き込んで封筒に入れ、天吾のアパートの郵便受けに入れるなんていうところも、時代だなあ、と思った。
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もうひとりのオンライン参加者Nさん(30代女性)は、子育て中の為、会の途中でお子さんの面倒を見るために退席、コメントはいただけませんでしたが、なんと10回も「1Q84」を読んでいるそうです。
3年前の読書会でもそうでしたが、「ふかえり」のその後がどうなったか書かれておらず気になる、という意見があり、わたしも今回読んで、「ふかえり」の消息がわからずじまいなのが消化不良になっています。
しかし、読むたびに、気になる箇所が新たに出て来たり、謎がいまだに謎のままだったり、村上春樹氏の壮大な仕掛けに、読書は惑わされ、ハマってしまうようです。
続編が書かれてもおかしくない内容だと思いますが、土居先生はそれはないでしょう、という意見。
個人的には、さらなる続きを読んでみたい気もするのですが。
また、偶然ではあるのですが、「空気さなぎ」をワクチンに見立てた記述に、コロナ禍の現在とシンクロしてしまい、思わず、読みながらあっと、声を上げそうになりました。
1年5か月ぶりの、ちょっと変則の読書会でしたが、わたしは普段、配偶者としか会話をすることがなく、人と接して、自分の考えを述べる、ということがこんなにいいものなのか、と改めて実感しました。
次回の読書会課題本は、濱口竜介監督の映画「ドライブ・マイ・カー」のカンヌ映画祭脚本賞を記念し、「ドライブ・マイ・カー」収録の「女のいない男たち」です。
(7月22日、生駒ビル地下会議室)
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