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2021年07月10日12:26

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『九闘奇譚』 二人目 魚兜闘士ピスクス

 使い古した兜、余りに長い間被り続けてしまったせいで、もはやの兜が自分の本当の頭だという気がする。魚兜闘士の兜、魚を象った兜、その腹の中に、頭部を押し込む。世界が静かになる。視界が澄みやかになる――水中のように。俺は人間ではない。長い盾は堅い鱗、三つ又槍は鋭い牙。そして、魚の腹に呑まれた頭、泥の下に埋もれ、獲物を品定めする冷血な鯰。兜に開いた小さな二つの覗き穴、狭められた視界が、その内側の景色だけを鮮明にして俺の脳に焼き付ける。

 ガルムという罪人を見ている。大きな男だ。ローマ人でないのは一見して分かるが、ガリア人ともトラキア人とも違う――もっと南の蛮族の血筋だろうか?
 肌が黒い。なるほどガルム(魚醤)で湿したように、黒く、つやつやとしている。美しいと思った。触れてみたいとも思う。ただ奴の肌に触れるのは、足元に切り伏せた後だ。今はただこうして眺めよう。
 髪も黒い。黒い黒い何もかもが黒い男だ。きっと歯も黒いのだろう。ただ一点のみ白い、眼だ。白眼が白い。そこだけが異質で、突き抜けて向こう側が見えているようだ。それ以外は黒い、闇の塊。瞳は黒い、井戸の底の様に深い。

 「4人殺されている」と聞いた。余りに残酷な殺し方をする――人間離れした獣じみたやり方で対戦相手を屠る――ので、一部のローマ市民から熱狂的な支持を受けているとも聞く――世も末だ!剣闘は、ただ血なまぐさいだけの見世物ではない。技術と魂のぶつかり合い、そこで飛び散る火花を枯れ行く花の盛りを眺めるように鑑賞する。そうあるべきだ。と、兜の中の男は考えている。自分の呼吸を聞きながら。まったくここは水中のように静かで、外の世界とは時間の流れ方が異なる空間。俺の聖域。穢すわけにはいかない。手足を戒められた罪人、いくら膂力に優れようとも、正しい闘い方を学んでいない奴が、闘技場で勝ち名乗りを挙げることなど――あってはならない。

 そろそろ奴の心を見よう。俺はいつもそうしてきた。兜の内闇に潜み、対戦相手の心を透かし見る――こいつは怯えいる一気に畳みかけようとか――猛っているここはいなそうとか。そうやって生き残ってきた。しかし俺は戸惑っている。奴の心が読めない。ただの黒い塊、焦りも逸りも見えない。怒りも悲しみもない。ただきっと、俺が近づけば、反射的に殺しにくるだろう。それだけは分かる。こいつはきっと、人間ではないのだろう。人ではなく、ましてや鬼神でも獣でもない。ただの死だ。こいつは死そのものだ。こいつに近づくと死ぬ。ただそれだけの存在なのだ。闘技場のあそこだけが、夜の闇のまま残っているかろうじて人の形を保って。冥府の入り口なのかもしれない。敵意も悪意もなく、ただ死へ導くだけの通路だ。通路が恐怖や焦燥を抱えるはずもない。

 滑り止めの松脂が、太陽の熱でだれてきた、俺は槍を握りなおす。そうしてじりじりと歩を進める。死に近づいてゆく。あれは冥府の入り口。あの闇を通り抜ければ、俺は解放される。自由となる。貴族にも商人にも僧侶にも奴隷にも等しく与えられた一度きりの権利――死。ただし俺の体は、それを拒むだろう。他の闘士同様、奴と命がけの闘いをするつもりだろう。だが無駄なことだ。俺は知っている。知ってしまった。奴の正体を。

 この兜の中の闇は、もう直に言葉を噤む。そしてもっと広く、寂々とした闇に混ざって、個としての境界を失うだろう。
 俺の足が駆け出し、俺の左手が長盾を構え、右手が槍を掲げるのを、魚の兜が、嘲笑うように眺めていた。
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