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2020年10月07日12:45

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翅の轍

「生きなきゃ……」

 羽化に失敗した蝶、湿った地面でバウンドし転がる。小石に打ち付けてしまった皺皺の翅が、深刻な角度で捻じくれている。うわ言のように前言を繰り返し、柊の幹に向かって這う。まだ乾ききっていない脚、これもまたあらぬ方向に曲がってしまっているのが数本混ざっていて、全身を脈動させて這うのだが、前に進む距離は、逸れてゆく距離の十分の一にも及ばない。それでも蝶は――生きなきゃ。と、漏らしながら、進むのを止めない。傍らに蟻がいた。

 蟻は待っている――蝶が力尽きて死ぬるのを。生きているうちは運びづらいが、死んで動かなくなれば、仲間を10匹も集めれば巣に持ち帰ることができるだろう。冬がすぐそこに迫っている。不猟続きでノルマを達成できていない蟻は、焦っている――早く死んでくれ。特大の食糧を発見したことを仲間に報告し、称賛と羨望の声を聞きたい。

「生きなきゃ」
 蝶は、這っている。蟻から見ればもう死ぬのは確実な容態。蝶は柊の木によじ登り、そこで羽化の続きをするつもりなのだろうが、もうすでに翅も脚も乾き固まり始めていて、羽化をやり直せるようにも見えない。なれば生きていたとしても鳥や蟷螂に喰われるに決まっている。飛べない翅と、萎えた脚で生存できるほど、この世界は緩くない。

(早く死ねばいいのに)
 蟻はそれだけを祈りとも呪いともつかぬ抑揚で胸郭でこだまさせている。だが蝶は、諦める気はないようだ。生きなきゃと繰り返し、見苦しい轍を地面に拵えて、柊を目指している。焦れた蟻は、蝶の希望を――希望なのか妄執なのかただの本能なのか分からないが、ともかくも蝶の生きようという意思を挫くべきだと考えた。進路に石を並べたり、脚に噛みついたり――そんな方法もあり得るが、蟻は気乗りしなかった。いや、その必要はないと思った。ただ一言、声を掛ければいい。

「生きなきゃ……」
 蝶が自分に言い聞かせるように囁いた後に、蟻は尋ねた。

「どうして?」

 蝶の動きが止まった。考えているようだった。蟻は観察している。無数のモニターを散りばめた小さな複眼に、無数の蝶が映っている。

「……生きなきゃだから」
 蝶は再始動する。蟻は驚き呆れた。なんという愚直な。なんと不可解な意思だ。呆然と見送る蟻をしり目に、蝶は柊に辿り着いた。そうして幹にしがみつき、何度が足を滑らせながらも、じわじわと幹を登り始めた。蟻は見ているだけ、そのうち見上げる程に達した蝶のシルエット、木洩れ日を浴びて、薄い羽が微かに光を透かして、蟻の複眼に映る。もう蟻には届かない。仲間を何匹集めても、あの蝶を引きずり下ろすのは難しいだろう。いつまでも構っていられない。蟻は柊に背を向け。

「生きなきゃいけないか……」
 と、半ば自問するように、公園のベンチに向かう。子供の落としたお菓子が、そこで待っていてくれるかもしれない。
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