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2020年08月15日11:02

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青になる色を渡る

 目の前の信号が青になるのを何百回、何千回、いや何万回と見てきたが一度も渡ったことは無い。
 理由は単純、横断歩道の向こうに用事が無い。僕の仕事は、横断歩道のこちら側に立って、ただひたすらティッシュを配ること。来る日も来る日も。

 1日3件、3つの会社のティッシュ配りのアルバイトをはしごして生活している。大体10時間から12時間は働いている。ほかに収入を得る手段を僕は知らない。このティッシュ配りという仕事は自分の性に合っている。何を以って合っているのか?と聞かれると答えに困るのだけれど……強いて言うなら、誰も自分を見てないという感覚、通り過ぐ多くの人が僕をティッシュを配る機械のようにしか思っていないという実感。それが僕には心地良い。
 そして一人で出来る仕事である点。煩わしい上司や同僚はいない。気がねがない。一人がいいのなら完全に一人で誰とも接しない仕事もたくさんあるし、実際いくつかやってはみたが、どれも長続きしなかった。しかしティッシュ配りは違った、孤独でありながらこれほど大勢の人に接する仕事というのも考えれば変わっている。どこかいびつな、まるで自分の心根のような――そういう意味で合っているのかも知れない。

 ポケットからメガネを取り出す。別にそれほど視力は悪くないのだけれど、バイトをするときはメガネを掛けている。

(赤い人、オレンジの人……そしてたくさん青い人)

 メガネを掛けると、通行人が色分けされて見える。僕が勝手に始めたゲームのようなものだ。
 通行人の体温を考える。残寒の3月に通行の吐く息はほのかに白くさえある。露出している肌の部分は青っぽいことだろう、そしてコートの中は黄色やオレンジで体の中心に向かうにつれ、グラデーションで赤味を増して行くことだろう。そしてのグラデーションのたどり着く先は心臓でそこは溶鉱炉のように赤赤と熱を凝らしていることだろう。
 メガネ越しに通行人を眺める。すると世界は一変し、さっきまで雑味を帯び、とりとめもない色の氾濫にあえいでいた街が、行き交う人の青から黄そしてオレンジ、赤の彩りを得て急に引き締まって見える。
 メガネを外す。いつもの風景だ。信号機が点滅している。

 自分はこの遊び、通行人を色の変化の塊にしか見ない不埒な遊びに夢中になった。メガネをかけている間はもはや人の顔や身なりは目に入らない。ただそこには熱を帯びた人型だけがあって手を伸ばしてティッシュをもぎ取って行ったり、ポケットに青みを帯びた手をいれっぱなしで通り過ぎていったりするだけである。しかしメガネを外す時、ふと心配になる時がある。
(メガネを外したら、誰もいないんじゃなかろうか?)
 信号が赤に変わるのを人事のように眺めている。横断歩道の向こう側に人が溜まっていく。信号が青に変わればこちらに歩いてくる。ティッシュを差し出すため待ち構える。いつものルーチン、ふと違和感を感じる。

(なんだあれは?)
 信号機の下に真っ青な塊がある。それは人の形をしている。
 真っ青の……こんなものははじめて見た。体温が無い人でもいるのだろうか?不思議に思ってメガネを外す。誰もいない。そんなわけはない――メガネを掛ける。信号機の下に真っ青な人がいる。シルエットからして女性のようだ。
 信号が青に変わる。大勢の色人間がこちら側に向かって押し寄せてくる。青い女性は――女性の形をしたものは動こうとしない。信号が点滅する。赤になる。
 メガネを再び外す。信号の下にはやはり誰もいない。

(どういう事だ?)
 疑念が色を帯びて心の中に満ちてくる。そして5分ほども、もやもやしていたが――
これは、自分が始めたただの遊びじゃないか――と気づく。いつの間にかこのメガネが秘密道具のように、本物のサーモグラフィーの機能を持っているように錯覚していた。何を考えていたんだ。ふふ。
 そして再びメガネを着けて仕事を再開――

 青い女がいる

 青い

 信号の下に

 携帯を取り出す。
「すいません、体調が悪いのであがらせてもらっていいですか?」
 バイト先の会社に電話を入れると電車に乗って帰った。ベットに入って考える。
(なんなんだあれは?)
 妄想の産物なのだろうか?変な遊びに夢中になり過ぎて、おかしくなってしまったのだろうか?いるはずがないものが見えたりして。それとも……
 布団を被るそして必死に眠った

 次の日。
 僕は昨日と同じ場所に立っている。メガネはポケットの中にある。メガネをかけずに仕事をする。行き交う人にティッシュを配る、配る、配る。もはや色人間では無い人に。お年寄り、学生、会社員、堅気に見えない人、若い女、気分が悪くなる。吐きそうだ。いったん仕事を止め自販機で炭酸入りのジュースを買う。
 僕は一人一人の顔色を伺う。でも行き交う人は誰も僕を見ていない。この不公平――この不公平が――いや、これを不公平と感じているのか?僕は?その不公平の埋め合わせが、サーモグラフィーゲームというわけか?人を温度の塊に見下すことで、自分の心のバランスを保とうとしていたのか?
 答えの出ぬ考えが山手線のようにぐるぐる回る。ただ一つ出た答え、もはや僕は、メガネを掛けねば仕事が出来ない。
(でも、あれを見るのは怖い)
 しかし、この仕事をしなければ生活をすることができない。ポケットに手を入れる。メガネをもたもたと取り出す。そして掛ける。
 横断歩道の向こうをおそるおそる見る。信号機の下――誰もいない。
 ほっ。
 死ぬほどほっとした、そして次の瞬間、死ぬほど驚いた。

「うわーーーーー」

 絶叫する。メガネを払い落とす。通行人が歩みを止めずに、何事かと一瞥していく。

(隣に、隣に立っていた。僕のすぐ隣に青い女が――)
 メガネを拾う――が、掛ける、勇気が無い。

(どうすればいい?)
 とにかくこの場を離れよう、会社には後で電話をすればいい。余ったティッシュをコインロッカーに放り込み、電車に飛び乗る。3つ先の駅で降りる。

(もう安心だ。もう安心だ)
 呪文のように唱えながら足早にアパートに帰る。部屋の前に立ち、鍵をポケットに探る。メガネに指が触れる。

(まさかな、な?)
 しかし、そのまさかを確認しなければ、心は断崖の突端でつま先立ちしている状態、いつまでも心臓鼓動の激しさが血脈を伝って耳たぶをじゃっかじゃっか鳴らし続けることだろう。
(いないに決まってる。それを確認するだけだ)
 そう自分に言い聞かせメガネを一瞬掛ける。目の前にちらっと青いものが見えた。急いで鍵を開けドアを閉める。
 心臓が、自分の心臓が、赤のもうひとつ上の赤さで脈打っている、のを感じる。ベットに飛び込む。

(どうして?)

 どうして、「どうして?」と、こんなにも思わないといけないのか?ワカラナイ、ナニモカモ。
 手にメガネが、ある。

「かけてみなよ」
 と,ナニ者かが耳元で囁く、気がする。いつのまにか僕は恐怖の虜になってしまっていて、妖琴に撥が惹かれるがごとく、メガネに顔を近づけていく。

 あぁあぁ、こんなに近くに。青い女は僕のベットの傍、足側に立っている。そしてゆっくりと屈みこむ。僕に覆い被さるように。
 青い指が僕に触れる。さぞかし冷たいのだろうと思っていたが、何のことはなく、触られた部分の感覚が失せていくだけである。その感覚の失せる様がはっきりと色で分かる。自分のオレンジ色の体温が女に移っていく、そして女の表面は一瞬だけ黄色くなりすぐにまた青くなる、それを繰り返していく、僕の体の下のほうから――女にも色が見えているのだろうか?あっあそこにはまだ暖かい色があるな、と思っていたら女の指は抜かりなくその部分に触れ、熱をさらっていく、まるで塗り絵でもしているように、塗り忘れの無いように満遍なく、丁寧に――

 色が失われるたび、恐怖も失せる。女を見る。顔はない。ただ青いだけで目鼻は判らない。せめて表情が見たかったなと思う。こうして僕の温度を奪っていく顔は、笑っているのか?泣いているのか?そう思って見ていると顔に変化が現れた。

(泣いている?)
 顔の輪郭から察して、目が収まっているであろうはずの場所から涙が、涙らしきものが零れている。それは青ではなく、オレンジ、熱を帯びているのか――見る間に色温度が上昇し、血のように真っ赤になり、頬を伝い、あごの先にしがみつき、どんどん膨れ上がっていく。線香花火のように。

(シーツに落ちたら引火するんじゃなかろうか?)
 そんな色である。
 何で泣いているのだろう?なにかとても不自然な気がする。僕の体温を断りもなく奪っておいて、自分だけ悲しみに酔いしれるのは卑怯なのではないか?
 僕はいまやだいぶ青い。そして感覚もだいぶ無い。でも心臓はまだ赤い。そして泣いている女に対して、同情でも、愛情でもなく、ただ僕のために――それすらも本当ははっきりしないのだけれど――泣いている様、その涙が、大輪のバラから輪郭を奪った後に残る色彩のように色だけで存在していることに、心を打たれ、女を抱きしめた。
 僕を奪ってくれ。そして、その流れている美しいモノの質量を世界に増やしてくれ。

 女は動きを止め、涙を止め、そのうち青い形であることを止めていく。

(待って!行かないで)
 と、念じたが、女は赤い雫を一滴だけ宙に残して透明の中に失せてしまった。そしてその赤も残光を引き連れて透明世界に消えた。

 次の日。
 僕はいつもの場所に立っている。そして信号が変わるのを待っている。メガネはポケットにある。が、それはどうでもよい。

(青は透明ではない)
 僕はきっと全身真っ青なのだろう。でもそのかすかな体温で生きていこう。
 信号が青になる。
 バイトを辞めた。やりたいことが出来た。いやもともとあったのだが見ないふりをしていただけ。それは僕の中にある色彩の塊だった。

 そして信号を渡る。
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