ちょっと気になってしょうがないのですが、インターネット/SNSなどで「コロナが収束するまで」「収束したあかつきには・・・」なんて発言をよく目にするけど、これって「終息」の誤字でしょ?
「収束」だったら「クラスター」だからアカンやん(笑)
それとも僕が勘違いしているだけなのかなあ?
これはあくまでも「枕」です。あしからず(笑)
ここから本題。
昔から大ファンで、幾度となく日記で取り上げている、ドイツ在住の世界的な作家、多和田葉子さん。
世界を覆ったコロナ禍。欧州各国も苦境に陥った中、ドイツはかなり適切な対策を打つだけでなく、その舵取りを担うメルケル首相の、論理的で毅然としたブリーフィングもネット/SNSを通じて称賛されています。
実は多和田さんもそれについて述べている記事をTwitterか何かを経由して知り及んでたのですが、我々の国がこのような体たらくだからとても情けなくて、未だに読んでいない(苦笑)
だけど、昨日の夕刊に寄せられた寄稿は良かった。
今置かれてる状況を冷静に観察し、むやみに比較はせず(川口恵美さんなら口を尖らせて滔々述べるだろう。笑)、社会やヒューマニズムに対してちょっとした批評を交えながら、未来への展望に眼差しを向ける。
なによりも、文章が凛としている。
さすが名作家の達見だな、とまたもや多和田さんに感服。
以下、ちょっと長いですが全文を掲載します。
「 新型コロナウイルスの感染速度を抑えなければ、イタリアのように急に患者が増え、医療施設が受け入れ切れなくなる。そんな事態を防ぐため、ドイツでかなり厳しい社会生活の制限が始まってから、すでに約3週間がたった。学校が閉鎖されたのはそのまた1週間前である。
外出禁止と言っても食料調達と散歩は許されている。ベルリンの町を歩いていると、小さな子供を連れた若いお父さんやお母さんの姿が目につく。保育園や幼稚園に子供を預けることができないので一日世話をしなければならない。楽しそうな親も疲れ切った顔の親もいる。子供の世話をしながらの在宅勤務は大変だろう。公園はテープが張り巡らされ立ち入り禁止、動物園も自然博物館も閉館なので行くところに困るらしい。ある小さな市民図書館は、子供が電話して「こんなお話が読みたい」と話すと、その子の好きそうな本を探して外の台に出しておいてくれるというサービスを始めた。
学校も大学も閉鎖されている現在、教育はある程度オンライン化されているが、これをきっかけに社会がその方向に進むとは限らない。逆に、生身の人間が集まって顔を見ながら話をしなければ、歴史も文学も学べないことを今しみじみと感じている人も多いようだ。
若者には、数人で集まりたいという欲望が強い。「たむろする」ことも成長期には必要なのだろう。学校が閉鎖されると退屈したティーンエージャーたちは頻繁にパーティーを開き始め、「コロナ・パーティー」という言葉まで生まれた。パーティーが禁止され、クラブもバーも喫茶店も閉まってしまうと、狭い売店の奥に集まってビールを飲む若者たちの姿が目についた。携帯を使ったやりとりだけでは孤独を感じるのだろう。そのうち規則はさらに厳しくなり、3人以上で集まることが禁止された。
つらい規則ばかりだが、今の医学が判断できる範囲で出してくる最良策に従うしかない。むしろ通常よりも社会が一つにまとまっている印象がある。経済よりも自然科学の発言力が強い状況はめずらしい。
どんなに家族を愛している人も、マンションで一人暮らしを楽しんでいる人も、一日のうち何時間かは自宅の外で過ごせる空間が必要であることが今回の危機を通してよく分かった。オフィスでも学校でも喫茶店でも図書館でも老人クラブでもいい。外に出た時に行くところがないと、自分が半分否定されたような気がする。
食料や薬は買うことができるが、それ以外の店はほとんど閉まっている。眼鏡屋などは時間を制限して営業していて、本屋は電話で注文すると本を家まで届けてくれる。このままでは倒産してしまうという零細企業や小売店には国や州から手当てが出ることがすぐに決まった。また、みんなの命を救ってくれる看護師という大切な職業についている人たちの給料が低すぎることが問題になり、改良案が出された。
不気味で不安な時期ではあるが、人間にとって何が本当に大切なのかをもう一度見なおすチャンスとして受け止め、有意義に過ごしたい。」
仕事帰り、実に久しぶりに夕食を外で食べた。
先に日記で紹介した近所のパン屋「鳴門屋」
「ソーシャルディスタンス」を取るためにテーブルが間引かれたカフェで。
焼きカレーと、ついでのデザート代わりに、この店オリジナルのショートケーキ。
やっぱり、自宅とは寛ぎぐあいが違いますね。
ぜんぜん関係ないハナシでむりやり締め括って失礼しました
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