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2019年10月05日11:47

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寛恕の豆腐

 一瞥し、首を振ると和尚はザルを突き返した。
「この豆腐は駄目じゃ。ひどく怒っておる」
 川西豆腐店の川西清三(53)は、表情を強ばらせ、ザルの上の豆腐を睨む。
「今度こそ心を落ち着かせて、精一杯作らせていただいたんですがね」
 和尚は、清三の落胆ぶりを柔和な笑みで包み。
「それは分かる。だが雑念が形となって現れておるわ」
 清造は再び豆腐を凝視すると、ため息をつき。
「和尚さん、俺には分からねぇよ」
「なにが分からんのじゃ?」
「和尚さんの言うことが」
「そうかい。儂はそんなに難しいことを言うとるつもりはないんじゃがの」
「豆腐屋の俺が言っちゃああれだけどさぁ、たかが豆腐じゃねぇか」
 和尚は哄笑した。
「ほっほっ、その通り、たかが豆腐じゃ。よいか清三、豆腐に限らず現世にあるあらゆる物は頭に『たかが』という三文字を頂いて存在しておるのじゃ。たかが豆腐、じゃからお前、必死になって儂に豆腐を喰わせようとせんでもよいのだぞ」
「いや、そうはいかねぇ、先祖代々この寺に豆腐を納めてきたんだ。俺の代でそれが無くなるんじゃ先祖に顔が立たねぇ。どうしても和尚に納得してもらって、前と同じように旨いと誉められる豆腐を俺は作ってみせる」
「ま、されど豆腐ということじゃな。その心意気や良し。一つ教えてやろう。よいか、豆腐に限らず人の気というものは万物に映るものじゃ。この豆腐には、作り手のお前さんの気持ちが如実に現れておるぞ」
「俺は怒ってなんかいねぇ。少なくとも豆腐を作っているときは無心に作っているつもりだ」
「ふむ、それを奢りという。自分を見つめ直せ。そして正直になるのじゃ、自分自身に」
 和尚の眼、皺塗れの頬と瞼の間に埋もれているそれが、清三には何か天然の物、例えば水や氷の塊のような物に等しく見えた。
「和尚、白状します、聞いてください」
 それから清三、ダム決壊の勢いとはかくの如しと喋り出した。こつこつと夫婦で貯めた金を、悪い男に騙されて家と家財以外そっくり無くしてしまったこと。そのことで佳代が内心自分をさげずんでいるのではないかと感じていること。
「いっそ佳代のやつが、俺に対して毒の一つでも吐いてくれたほうが俺はどれほど気が楽になるか」
「はっは、そんなことしたらお前さんの気性じゃ大きな喧嘩になってしまうだろう」
「それでも構わねぇ。でも佳代のやつ、何を考えてやがるのか以前とかわらず朝飯つくって洗濯して」
「いいことじゃないか」
「よくはねぇ、俺は佳代に謝りたいんだ」
「ふーん、謝ればよいではないか」
「あいつが俺を責めなきゃ、謝ることが出来ねぇ」
「そりゃまたおかしな理屈じゃな」
「俺は、俺ぁ、自分でも変だとは思うけどそういう人間なんだ」
「ふむふむ、まぁお前さんの考えてることは大体分かった。で、お前さんどうしたい?」
「和尚、そこで相談なんですが」

**********

「どうです?和尚」
 佳代が作った豆腐を和尚に差出し、清三は畏まって座り直す。
「寛恕、だな」
「『かんじよ』?それぁ、いったい、どういうあれですか?」
「寛恕、『寛』とは『ひろく』という意味じゃ。『恕』とは、赦すということじゃ、この豆腐は長い年月が作り出した鍾乳石の肌合いのような柔らかな線と色味に満ちておる」
 和尚はザルに顔を押しつけ、豆腐にかじり付いた」
「うむ、美味なるべし」
 清三、伏して号泣した。
「和尚、和尚、俺は嬉しいぞ。いや、佳世のことじゃねぇ。和尚が家の豆腐を食ってくれた。やった。やったぞ佳世」
「ふむ」
 和尚は無造作に袖で口の端を拭い、頭を掻いた。
「和尚、じゃあ明日からここに納める豆腐は佳代に作らせるから」
「いや、それには及ばん。今まで通りお前さんが作れ」
 和尚、完爾として。
「今のお前さんの心意気を食ってみたい」

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