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2016年01月09日18:40

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フランク永井の曲を鶴田浩二が「ブルースを唄う」で熱唱カバー

 鶴田浩二はご存じフランク永井の恩師吉田正と盟友であり、吉田学校と呼ばれる門下生ということでは第一期生であるというより、創立者のひとりだといってもいいのではないだろうか。
 戦後の人気俳優ということでは日活の石原裕次郎をあげるのは普通なのだが、実は気骨ある俳優で二枚目で映画界と歌謡界で暴れまわった人ということでは鶴田をあげてもいい。
 鶴田のスキャンダルの幅は一線を越えるほどであったがゆえに、なかなか裕次郎の次にあげる人は少ないだけだ。鶴田については好きだという人と、嫌いだという人にわかれる。作られたイメージだけで、真実とは程遠いようなことなのであるが、人気の商売をしているものには避けえない誤解と割り切って、鶴田自身は何にも決して言い訳をしなかった。
 鶴田はよく「特攻隊くづれ」などと言われたが、特攻隊そのものではないが戦中軍隊を経験し彼は多くの友を失くしている。実際に戦争を激しく憎しみ友を思う思念が深く、それが彼の甘い容貌だけではない深い演技に表現された。
 俳優としての中半以降は戦争やヤクザ関係の映画が多く、実際に人気を上げていくのだが、営業利益優先でブームをことさら引っ張り、鶴田にヤクザや軍隊イメージをかぶせあげ、歌も多く歌わせた映画会社等にカッ!!をあげたい。
 その鶴田と悲惨な体験者の吉田正が尊敬と信頼で近づくのは、当然の流れだったのかもしれない。初期にポリドールやコロンビアからレコードを出していたが、吉田正と知り合ってからはビクターでヒット曲を出した。
 「街のサンドイッチマン」(1953年)、「赤と黒のブルース」(1955)、「好きだった」(1956年)が代表曲だろう。鶴田は若い時分に薬害で左耳の聴力を害し音の確認が困難で手を耳に当てる歌唱スタイルが、人々の印象に残った。裕次郎もそうだったが「自分は俳優であって歌手ではない」と言っていた。歌のうまさというより、渋く悲哀を感じる彼の声には多くのファンがいた。
 フランク永井は1956年に「場末のペット吹き」で流行歌手となるのだが、この曲の雰囲気は鶴田浩二を吉田正が意識して書いたともいわれる。聴くと確かに鶴田が歌ってもよかったかなと感じるところもある。だがフランク永井は流行歌の世界にこの歌で飛び込むときに、ほとんど自分の人生のこれからをこの一曲にかける思いで取り組んでいる。
 比べて聞けば、節々にプロとしての歌手の感覚でのメリハリの表現がフランク永井が勝っておるのは、恩師がこの歌を鶴田にではなくフランク永井にとの判断の深さだった。
 鶴田は「歌はあまり…」といいながらも、歌手としてもドラマやテレビでも活躍している。残されている曲も200曲を超えるという。歌い出せばいつも熱が入り、素足になったり、シャツを脱いだりと集中度をあげてまわりをまきこみながらすすめたいう。
 1971年に「SJX-84-鶴田浩二ブルースを唄う」というLPを出している。
 ここにはカバー12曲おさめられているが、5曲がフランク永井の歌を歌っている。
 「夜霧のブルース」「夜霧の第二国道」「別れのブルース」「雨の酒場で」
 「霧子のタンゴ」「上海リル」「雨のブルース」「上海ブルース」
 「俺は淋しいんだ」「ラブ・レター」「雨に咲く花」「場末のペット吹き」

 「夜霧の第二国道」「霧子のタンゴ」「ラブ・レター」「場末のペット吹き」は吉田正の作曲、「俺は淋しいんだ」は渡久地政信の作曲だ。そして、このすべてがこのアルバムのために、寺岡真三が再編曲をしているという点がいい。
 「場末の…」「夜霧の…」「ラブ…」はもともと寺岡真三が編曲している。他の曲もオリジナルの編曲のイメージをくずさないで作っているので、自然に聞こえるのだが、寺岡による微妙なアレンジを感じることのできる作品になっている。
 このLPの吹き込みに際しても鶴田はそうとう気合をいれて作ったようだ。事実上のプロデューサ的な責任者でもあった寺岡がOKといっても、何度も「自分は納得いかない」と取り直しをさせたという。
 フランク永井のヒット曲を名だたる他の歌手が歌っているときに、ぜひとも聴いて比べて、新たな楽しみを見つけだしたいというのはファンの人情だ。
 鶴田浩二が健在だったころのいくつかのエピソードを懐かしく思い出しながら、LPを聞き直したところであった。

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