亡くなった方を悼み、弔う人の物語というと、どうしても「おくりびと」を連想してしまいますが、「おみおくりの作法」は、鑑賞前の予想を大きく裏切る(良い意味で)衝撃的な作品でした。
その衝撃はあのラスト一分間から来るものが大きいのですが、未見の方のため詳細は避けます。まさかああいう形で終わるとは思いませんでした。
主人公のミスター・メイは、ロンドンのある地区の自治体で民生係をしています。
彼の仕事は孤独死をしてしまった人々の遺品を整理し、葬儀をコーディネートし、遺族や関係者を捜し出して連絡を取って葬儀に参加してくれるよう促すこと。
しかし、葬儀には誰も来てくれません。おそらく、亡くなった方それぞれ事情があって親類縁者と縁を切ったり、たった一人で生きて行く人生を選んだりしたのでしょうから。
ですから葬儀に出るのはいつもミスター・メイ一人だけ。それでも彼は故人の信仰に合わせた葬儀を準備し、弔辞を書き、BGMを選択し、荼毘に臥します。そして、故人の写真を一枚だけ拝借し、自分のアルバムに丁寧に貼付けるのです。
前半でのミスター・メイの仕事と私生活を描いた部分は驚くほどシンプルでオーソドックス。資料棚や机上がきちんと整理された、広くはないけれど極めて機能的なオフィス。余計なものは一切置かず、かと言って無味乾燥なわけでもなくとても機能的なアパート。そして丁寧で正確無比な仕事ぶり。
このあたりは「真夜中の刑事」のイヴ・モンタン、「サムライ」のアラン・ドロンを思い出させるものがありましたね。なんとなくフィルム・ノワールっぽい味わいを感じましたよ。ジャンルは全然違うのに。
そんな彼に変化をもたらしたのが、近所に住むビルという男の死。
飲んだくれのトラブルメーカーだったというこの男の存在を、ミスター・メイは知りませんでした。これまで死者の心に寄り添うような仕事を心がけて来たものの、すぐそばにいる生者には関心を寄せていなかったことに、彼は気づきます。
上司からリストラを言い渡され、ビルの案件を最後の仕事と決めたミスター・メイは、彼に関わった全ての人々を訪ね、その人生を追体験しようと心に決めるのでした。それは仕事を超えた、「生きた証」を立てるためのオデッセイ。ビルと、そしてミスター・メイ自身のための。
決まりきった習慣を捨て、少しづつこれまで自分がしなかったことに挑戦して行くミスター・メイはとてもチャーミングでした。飲んだことのないココアを飲んだり、簡素だった食事にサーモンを加えたり、クソッタレな上司の車に小便をひっかけたり。
そして、ビルの娘であるケリーとの「恋の一歩手前」とも言うべきほのかで初々しい交流。ここで彼は今まで見せたことのない、優しく温かい微笑を浮かべるのでした。亡くなったロビン・ウィリアムスを思い出させるその笑顔の、何と素敵なことか。
この作品は、いわゆる「癒し系」ではありません。
それはミスター・メイの「ビルの人生探し」のプロセスを見ればよくわかります。決して激することはないものの、根底には何か、沸々とした怒りのようなものが渦巻いているのが感じられるのです。それは例えば、経済効率ばかりを追い求めて「利益」を生み出さないものを容赦なく切り捨てていく社会に対するものであり、また人間性を破壊する戦争や軍隊に対するものであったりします(まさかフォークランド紛争の話が出てくるとは思いませんでした)。
死者に冷淡な社会は決して生者をも大切にはしない。つつましくささやかな幸福の追求すら許さず、カネを生み出すものだけを尊ぶ非情な社会システムに対する憤りが、ミスター・メイの旅の物語の裏側に隠されているように、私には思えました。
本作を、私は平日の昼間に観たのですが、場内は幅広い年齢層の観客で埋め尽くされ、立ち見まで出てました。
こういう作品にきちんとアンテナを指向させ、劇場に足を運ぶ人がこんなにたくさんいることに、私はある種の「希望」を感じます。
へらへら笑いながら汚いヤジを飛ばす政治家や、己の差別意識を剥き出しにして何ら恥じることのない似非文化人を支持するヤツらばかりが「今の日本人」ではないのだということの表れですから。
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