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2015年02月01日10:27

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1958(S33)年、北野劇場フランク永井ショーでの花登筺作「有楽町で逢いましょう」

 「有楽町で逢いましょう」といえばフランク永井がデビュー2年後の1957(S32)年に大ヒットを得た不朽の名作だが、これは関西から東京へ進出してきたそごうデパート開店の宣伝をするための歌であった、というのはファンなら皆知っている。
 ビクター専属の作詞家佐伯孝夫が当時上映していた映画「ラスベガスで逢いましょう」というのにヒントをえて、キャッチフレーズを思いつき、それに吉田正の作曲をあてて作った歌。テレビ放送が開始された時期で、そのタイミングで連携を提案、同名の番組が作られた。雑誌「平凡」には同名の小説(宮崎博史作)の連載が開始された。そして大映と組んで同名の映画ができた。
 実際にそごう開店時には雨天にもかかわらずたいへんな来客の行列であったようだ。
 このように書くと、よくもそこまで連携ができたものであると、いま感じるのだが、その大成功のきっかけとなったのは、やはりフランク永井の歌がヒットしたことにあった。
 だが、上記はいわば結果的な伝説で実はそうとう強引な「まるめ」で書き紹介したもの。まあ、現時点でならすでにそごうもないし、メモ的に補足を記しておくことにする。
 そごうデパートは有楽町読売会館の一角で、現在も読売ホールがある。当時TV放送曲は東京ではNHKと現TBSと現日本テレビだけで、この日本テレビは伝説的な正力松太郎の指揮下であった。戦後の日本に巨人軍を先頭にした野球、力道山のプロレスなどさまざまな娯楽を導入、テレビの普及でも番組作りに大きな影響をあたえた。
 そごうが入ることが決まり読売会館に人を集めるためにもまず打ったのは「有楽町で逢いましょう」の昼枠30分ウイークエンドミュージカル番組で、3月開始。読売会館の開館式は5月、そごうの開店は5月末。たいへんな盛況だったのは事実だが、この時点ではまだ「有楽町で逢いましょう」は、まだまだ娯楽がラジオと映画が中心で、普及度が低いTVの一番組名に過ぎなかった。
 そこでTV宣伝、読売遡及、デパート繁盛のためのさらなるキャンペーンを意図したのが正力オーナー。それに応じたのがビクターからの歌、芸能雑誌「平凡」、映画の大映だった。9月ごろから店内はもとより会館や周囲に「有楽町で逢いましょう」のキャッチが使われ、貼りだされた。
 11月、フランク永井は同番組に登場、レコードも発売された。平凡の連載開始も11月。映画は年明けの1月に封切られた。歌も映画も大ヒットし、結果的にそごうも読売会館もたいへんな盛況を迎えることになる。みごとに彼らのもくろみは大成功した。
 フランク永井はこれ以来ひっぱいだこ。1958年3月、大阪梅田の娯楽の殿堂、当時の「北野劇場」でさっそくに舞台「有楽町で逢いましょう」が催されたようだ。
 見せてもらった台本によれば、第141回北野ステージ・ショウ公演「有楽町で逢いましょう」という演題で、3月11日から22日まで。台本は当時の売れっ子の花登筺(はなとこばこ)によるもので、小説や映画とはまったく別物だ。
 フランク永井の歌を中心に藤本二三代、神楽坂浮子ら何人かのビクター歌手が出演して、有楽町界隈でのかわいく、悲しく、後にハッピーという小劇がいくつか展開する内容だ。
 ちなみに映画は京マチ子とその弟役川口浩、菅原謙二とその妹役野添ひとみ、大映のオールスター・キャストで、当然フランク永井は主題歌を歌い、後半ではこの映画でしか聴けない4番歌詞が楽しめる。
 さて舞台のシナリオを描いた花登筺だが、フランク永井とはこうした縁でつながりができて、その後も舞台やテレビドラマとの関係で歌ったり出演したりした。最初は1961年「番頭はんと丁稚どん」のシリーズでフランク永田役、歌も「初恋ぼんぼん」。LP「魅惑の低音第10集」に「空ほど君をあいしてる」。その後1967年関西テレビ「船場」で主題歌「船場ごころ」、1968年関西テレビ「堂島」で同名の主題歌を歌った。
 ちなみにひととき花登筺と裏で仲良く表で不仲を演じた藤本義一が作詞した「幸せひとつ」(1965)、「大阪無宿」(1975)も歌っている。
 それにしても当時おおきな影響力をもった方々、正力も花登も個性的があふれていた。それだけにテキも多くいたようだが、時代に印象的な跡をのこしている。
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