mixiユーザー(id:1280689)

2015年01月18日16:30

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ジミー、野を駆ける伝説

 1930年代のアイルランドを描きながら現代の世相を照らし出しているような作品でした。
 いわゆる社会派ドラマではあるものの決して堅苦しくないし、ハッピーエンドではないけれど爽やかな後味を残す佳作です。

 1930年代初頭、アメリカから故郷アイルランドに帰って来たジミー・グラルトン。彼はかつて地主の搾取や宗教的抑圧に抵抗する活動家として活躍していましたが、秩序紊乱の汚名を着せられ、やむなく国を離れていたのです。
 地域の若者達に請われ、人々の教育と憩いの場として設立したものの後に閉鎖されてしまった集会所を、ジミーは復活させます。
 それを快く思わなかったのが、地元のカトリック教会の神父・シェリダン。彼は集会所に来た人々の名を調べてミサで糾弾したり、同調者を集めて圧力を加えたりしますが、ジミーとその仲間たちは決して屈しませんでした。しかし、「教会」という権威と「経済的支配」という名の権力は軍や警察と結託し、卑劣な手段を講じてジミー達を一掃しようとするのでした。

 本作の面白さは、ジミーVSシェリダンという二元対立の構図を描きながら、シェリダンを決して憎むべき仇敵として扱っていない点にあります。互いに決して自らの主張を引っ込めようとはしないけれど、相手の人格を貶めたり存在を否定したりせず堂々と渡り合う姿は実に清々しく、あっぱれ!と思ってしまいます。
 特に、警察に拘束され連行されるジミーに罵言を浴びせる男たちを「口を慎め! 彼は君たちよりも勇気と知性を持った人間なのだぞ」と一喝するシェリダンの男気には感動すら覚えました。正に彼は「北斗の拳」でいうところの「強敵(とも)」だったのですね。

 それに比べて、カトリック教会の権威を傘に着て人々を抑圧する地主たちや、ろくに物を考えず、無思慮に「アカ」を連呼する連中のなんと醜悪なことか。自らの正体を見せず、闇に乗じて集会所を銃撃したり(中に子供がいるにもかかわらず!)、こそこそと放火したりする卑怯さは、ネットの匿名性を利用して汚い言葉を吐きまくるバカなナショナリストに通じるものがあります。
 この世で最も卑劣なのは、自分と異なる意見を持つ者を攻撃することではなく、対立する当事者の一方に過剰に肩入れし、それを利用し尻馬に乗って自らの汚い差別意識や破壊願望を剥き出しにして満足を得ようとする者たちなのです。
 今、たくさんいますよね? そういうヤツら。

 人の世において、倫理観の違いや利害のぶつかり合いから来る対立は避けられません。それを調整し妥協点を見出そうとするのが近代における社会システムのはずでした。しかし、多くの先達が苦労して築き上げて来たこの仕組みを、無知蒙昧な連中は蔑ろにします。社会全体のささやかな幸福よりも、破壊と暴力で得る薄汚い満足感を優先させる愚者。彼らをそんなどす黒い悦楽から引き離すには、どうしたら良いのでしょうか。

 映画はそれに対する答えを明示しませんが、その理想に近づくための希望だけは描き出してくれています。

 それは、若者たちの笑顔でした。
 トラックに乗せられ、国外追放されるジミーを自転車で追いかけて別れを告げる「ジミーの子供たち」。彼らの爽やかな笑顔は、いつかはきっと実現するに違いない「憎悪や偏見のない世界」の到来を感じさせずにはいられません。

 地味だけど、とても良い作品でした。
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