病室は4人部屋。私が一番若輩者、そして70代のかたおふたりと60歳手前のかたおひとり。ふだんはそれぞれ仕切りのカーテンをしめきったままで特別な交流もなく、部屋を出て廊下や談話コーナーですれちがってもお互い目礼をする程度であった。むしろ面会時間が限られているせいもあって、家族同士のほうが仲よくなっていたようだ。
今回の主人公は私のななめまえに陣取る年配のかた76歳。このかたに奇妙な習慣というか日課があったのだ。それは毎朝、朝食が配られる時間になるとそのかたは実にヘンなメロディをひとり唄いはじめるのだ。それはまるでその日一日を元気に過ごせるよう自分を鼓舞するおまじないのよう、いわばラジオ体操代わりのような儀式だった。
その奇妙なメロディ、旋律そのものは戦後歌謡のイントロのようでもあるが、意味のある言葉がそのメロディに乗っかることはいっさいなく、すべて奇怪な擬音語から成り立っていた。しいて似たものを探せば「子連れ狼」のイントロ部分、♪シトシトピッチャン、シトピッチャンを連想していただければわかりやすいかと思う。
そしてその擬音語は多彩を極め、一度唄い出すとそれはけっこう長く続いた。もちろんこのかたふだんはまったく静か、朝のひとときだけ病室一杯に声が響いたのである。同室の他のおふたりはどう思っておられたか、それはまったくわからない。でも私はだんだんこのかたにはどういう文化的背景と個人的体験があるのか気になってきたのだ。
よし、退院するまでにその正体をつきとめてやろう。でも最終的にはご本人に訊くしかないわな、どういうふうに切りだそうかな、などと思っているうち、不覚にも私のほうが病棟引っ越しとなってしまった。したがっていまだあの奇妙な“夜明けのスキャット”はいったいなんだったのか、まったく謎のままなのである。
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