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2006年06月25日02:02

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●身辺雑記(83)/■人生と文学と政治 (11)

■人生と文学と政治 (11)

 ●一瞬にして、消える

  きょうも、まぶしい光が射していた。
  それを見ながら文字を打ち込んでいた。

  「きょうこそ、ほんとうに終わりにしよう、
   そう思って、書いている」

  そんな書き出しで、書き始め、
  半分ほど書いた。

  ひとりで、遅い昼メシを食べ、TVをつけたら
  たまたま洋画をやっていた。

  アメリカ映画で、ホワイトハウスの内部で、
  大統領暗殺を謀る謎のグループがあり、その秘密の
  一端を知った大統領特別補佐官と、その関係者が次々に
  襲われ殺されるというもの。

  一回、見たような気がするが、そのまま見る。そして
  ご飯も食べ終わり、こんどは横になって見ていた。
  そしたら、そのうちに眠ってしまった。

  目が覚めたら別の映画をやっていた。


  そして、再びパソコンに打ち込みをはじめようとした。
  開いた書きかけのページで、上の「ホーム」か「日記」かの
  ボタンを誤って押し、すぐにもとにもどしたが、
  「日記を書く」のページには、ただ真っ白な、まだ何も書かれて
  いないページが残っていた。




 ●これが最後・・

  いったん消えてしまった文章を、もう一度、どう書いたかを
  思い出しながら書くというのは、気が乗らないものだ。

  それで、別のことを書くことにした。


  今回で、このシリーズも終わりにしよう、というのは
  かわらない。

  <人生と文学と政治>にまつわる私自身の話は、それは
  多くは、それらの絡みで私がどんな「本」を読んできたか、
  ということになるし、それは私にとっての<文学>とも重なる。

  そして、残りの<政治>と<人生>のうち、<政治>は、私は「非政治的」
  人間であるが、ひょんなことから「労働組合」と関係をもったり、
  市民運動や教育関係の運動にかかわりができ、そこで、やむを得ず
  「政治的立場」の選択を迫られるということがあった。

  しかし、その<政治>の話だって、思い出話でこれからも、また
  触れることがあろう。取り立てて、ここでどうしても書いておかなければ
  ならないことはない。


  また、あとひとつの<人生>ともなれば、これは日々、書いている
  ああでもない、こうでもない「身辺雑記」そのもので、
  「人生と文学と政治」のシリーズで書くことではない。



  だが、<人生と文学と政治>という「3つの領域」の話と捉える
  のではなく、「人生と文学と政治」と、そのタイトルにつけた
  「眼目」、つまり、その3つがどう絡むかという話になれば、
  それはここでのテーマであり、そのひとつの結論がきのう書いた
  「人生的な、餘に人生的な」ということになろうか。


  そして、何回かにわたって書いた「ヤバイ人」にも、その絡みの
  結果として、私がどうふるまってきたか、そのようなものを書いた。


  だから、あとは「身辺雑記」で十分こと足りるのだ。




 ●「人生と文学と政治」的なるもの

  そういうことで、何かタイトルどおりのことを書けたかいえば
  何も書けていない気もするが、それでいいのだという思いもする。

  それで、あと二、三のことを書いて終わりにする。


  もともと、こんなことを書くきっかけになったのは、
  平野謙「昭和文学の可能性」に端を発する。

  平野謙自身が、その後「昭和文学の可能性」を引き継いで書いたか、
  あるいは、文学史などで、どう「昭和文学のその後」や「平成文学」、
  あるいは、呼称を変えて「戦後文学」や「現代文学」の可能性や
  盛衰がどう語られているのか、私は知らない。


  私に関して言えば、「文学」や「文学史」そのものではなく、
  「人生と文学と政治」的なもの、つまり、その三者の絡みであって、
  言葉を継ぐなら、さらにそのうち、より「人生的な、餘に
  人生的な」ものに心惹かれる、といえばいいだろう。



 ●低い鞍部(あんぶ)で越えるな

  そして、この「本」で平野謙が問うているのは「昭和文学の可能性」で
  あると同時に、「現代文学」なり、今日ただいまの「文学の可能性」
  である。

  広津和郎が、「そう軽く<現実>を超えてもらっては困る」という
  「重たい現実感」をどう乗り越え得たのか、また、どんな「現実感」を
  得たのか、そのことも問うている。

  そして、もし越えるなら「低い鞍部」で越えてはならぬ、と
  言っているのだ。

  このほかに、この「本」には、いろいろ教えられることが山ほど
  つまっている。しかし、すべてを割愛する。もし、入手可能なら
  ぜひとも一読をすすめる。


  私の言いたかったことの、百倍に倍する主張と「文学とは何か」
  という問いに対する、ひとつの誠実な回答あるいは模索を見ることが
  できると思う。



 ●あなたは、私かもしれない

  さて、いよいよ最後である。

  わたしは、こうも思う。
  「ひょっとしたら、寺島実郎は、もう一人の私ではないか」
  あるいは、「保坂和志とは、11歳も年下の弟のように見えるが、
  実は、あれは私ではないか」



  また、早くは、里中哲彦「まともな男になりたい」を読み、
  「彼に同情し、声援を送る」と書いたとき、「保坂」よりまだ年下の、
  1959年生まれの、一回り以上も違うこの人に私が見たものは、
  「一周回遅れで走っている自分」の姿だったのではないか。


  そして、「保坂和志」という生きた人間でなく、同じ名前で
  成立している作品としての「保坂和志」に出会ったとき、
  私は、その彼のすべてに賛同し、すべてに違和感をもった。
 

    保坂和志「途方に暮れて、人生論」

    ・人生を感じる時間
    ・私は「過去」を忘れない
    ・「生きにくさ」という幸福
    ・大人の遊びは遊びなのか?
    ・善と悪の差は本当にあるのか?
    ・老いることに抗わない
    ・<死>を語るということ
    ・「あやふやさ」と「よるべなさ」
    ・教養の力
    ・見る力と、物言わぬ力
    ・想像力の危機
    ・カネのサイクルの外へ!!
    ・数々の言葉


    《ざっと拾ってもこのとおり、まるで符牒を合わせたように
     私の関心と彼の関心は一致する》




  と書き、翌日には、



   《●保坂は自分でも言っているように、「1956年生まれ」と
     いうのは、その前の「団塊の世代」と次の「オタク世代」の間に
     はさまれ、「なになに世代」という呼称を持たずに来てしまった
     学年だった。
  
     そのため、「自分は何者かである」という幻想を、上の世代の
     ように外に向かって叫ぶことも、下の世代のように
     内に向かって抱え込むことも、ともに必要なかった。

   
     自分の人生においてすら、自分が当事者であることは
     些細なことなのだ。

     個人レベルの人生とは特徴がないものなのだし、あったとしても
     (それは)たいしたものではない。


     そういう世代であるからこそ、人生についても


     人生とは本質において、誰にとっても、「遅く生まれすぎた」か
     「早く生まれすぎた」かのどちらかを感じるようにできている
     ものではないか。

     つまり、個人が人生において直接経験することなんて
     たいしたことではないし、他人に向かって語るべきものでも
     ない。

     人生とは自分が生きることではなくて、人によって生きられる
     ものなのではないか。それも傑出したヒーローでなく、
     自分のような人によって生きられる。


     と、保坂は考えている》


   《●私が保坂に対して、私と似ている、同じものを見ている、
     と思う一方で、激しく反発し、それは違うだろう、と思うのは
     この点である。

     つまり、彼の社会や世間とのつながり方、そしてその結果と
     しての「自己の卑小感」や「人生への期待薄感」に対して
     である》


  と、私は書かざるを得なかった。




       ・・・・



  でも、その「賛同」と「違和感」は、実は、もう一人の私への
  「賛同」であり「違和感」ではなかったのか。


  言い出せば、いくらでもある。



  たとえば、作品「保坂和志」の「希薄感」や「抽象的生活」。


  私も読んできた。

  近くは(といっても随分まえの話だが)、評論家・秋山駿の
  「無用者の告発」や「歩行と貝殻」。

  そして、遡って、ポール・ヴァレリー「テスト氏」。

  また、別の系列であれば、ドストエフスキー「地下生活者の手記」、
  魯迅「狂人日記」。

  あるいは、アルベェル・カミュの「異邦人」。



  そして、さらに言葉を追加するなら、作品「保坂和志」と
  作品「村上春樹」の違いや、このような「希薄な日常」と地続きにある、
  私の団地近くで起きた「酒鬼薔薇聖斗」の事件など、思い出す
  ことは多い。


  しかし、それとても、もういいのだ。

  それは、きのうの「保坂和志とカフカ」で言ったとおりのことだ。


    《私は窓から眺めている》


  と、書くだけで、その文章は完璧であり、
 
    世界は歓喜に酔いしれて、私の前で身悶えしながら
    世界は仮面をぬぎはじめる

  のだ。

  だから、私は、


    《私は、あなたかもしれない、
     また、あなたは、私かもしれない》


  そう書くだけで、私はもう十分なのだ。




■参考
  ・「人生と文学と政治」資料
  ・「カフカと涅槃」

  ・「日本の評論家(1)」
  ・「日本の評論家(2)」
  ・「日本の小説家」



 
■参照
  ・人生と文学と政治(1)
  ・人生と文学と政治(2)
  ・人生と文学と政治(3)
  ・人生と文学と政治(4)
  ・人生と文学と政治(5)
  ・人生と文学と政治(6)
  ・人生と文学と政治(7)
  ・人生と文学と政治(8)
  ・人生と文学と政治(9)
  ・人生と文学と政治(10)
  ・人生と文学と政治(11)



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