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2006年06月16日12:31

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●身辺雑記(75)/■人生と文学と政治 (3)

■人生と文学と政治 (3)

 ― 考えること思うこと ―



 ●私は何を書こうとしているのか。

  「人生と文学と政治」と題して、

  1回目は、私は、きわめて「非政治的」人間であると書いた。
  2回目は、たくさん「本」を買い込んできたことを書いた。


  いつ、「人生と文学と政治」の話は始まるのか。
  タイトルは、何を示し、何について述べようとしているのか、
  これでは、とんとわからぬではないか。


 ●いや、実ははっきりしているのだ。

  私が、ずーっと考え、いつも心に思い浮かぶことについて
  私は、書こうとしているのだ。

  そのことが、「政治的なこと」であり、「文学的なこと」であり、
  「人生的なこと」なのだ。

  書きたいのは、私の、考えていること、思うこと、そのことを
  書きたいのだ。


 ●「人間は考える葦である」といったのは、パスカルである。

  「われ思う、ゆえにわれあり」といったのは、デカルトである。

  人間は、動物のように、食らい、動き回り、眠る。
  しかし、考え、思うことに、人間の特徴はあるようだ。


  人は生まれ、そして死ぬ。
  生きているあいだだけ、「生きている」。

  生きているあいだ、人間は何でも仕出かす畜生でもある。

  生きているあいだ、人は暮らす。
  人は生活する。
  人は生きる。



  では、人が「生きる」とは、どういうことなのか。

  死ぬまでのあいだ、何をもって人は「生きた」といえるのか。



 ●生きるとは、動物のように動き回るということではないだろう。

  生きるとは、動物のように動き周り、動物以下の畜生みたいな
  ことも仕出かすが、まず、考え、思うことがある、ということではなか
  ろうか。


  「生きた」というためには、「生きる」という自覚が必要だろう。

  つまり、「生きること」への考え、思いというのが必要だろう。



 ●「人生と文学と政治」と題して、私の書きたいのは、この
  「生きること」、そのことについて書きたいのだ。

  「生きること」への考え、思いのことを書きたいのだ。

  その考え、思いというものが、「人生的」で「文学的」で「政治的」
  だ、ということだ。



 ●「急がば回れ」のことわざどおり、迂遠なようであるが、
  ギリシアのむかし、人々が同じように、このこと、つまり
  「生きること」について、考え、思ったことから、話を始めてみよう。



  「思想の歴史」(平凡社/1965年4月10日初版)第一巻/
  「ギリシアの詩と哲学」の「思想とは何か」からの引用を掲載する。

  なお、引用は、私に理解しやすいように、適宜要約し
  抜粋、改変している。





     フォト




 ●思想の歴史(平凡社) 第一巻

  「ギリシアの詩と哲学」から

  「思想とは何か」 (執筆担当:田中美知太郎



  もし、われわれの「思う」ことが、そのまま「知る」こと
  であったなら、われわれには「学問」というものは必要ない
  ことになっていただだろう。(P.2-P.18)


  「知識」(知る)というものが「思想」(思う)から区別されて、
  別に追求されねばならぬ理由はここにある。(以下、同じ)

  このような、「知識」の追求が「学問」にほかならない。

  だから、知識は力であるが、思想が力であるかは、わからない。

  「知識」は、「思想」の中の「特別な思想」、あるいは
  特別な場合に、「思想の中から派生した思想」と考えること
  ができる。

  では何が「思想」と、「特別な思想」つまり「知識」とを
  区別することになるのか。

  それは、「知識」が客観性をもち、真実であることが保証されている
  ということにある。



      フォト


      (図:「知識と思想の関係」参照)



  このような「認識」(「知識」の別名)と、単なる「思考」との
  区別は、カントが特に強調したところである。

  論理の一貫性だけでは、「客観的認識」は保証されない。
  保証されるためには、論理的首尾一貫性(つまり「合理性」)
  だけでなく、事物との対応において、「現実性」とか「客観性」
  というものが要求される。


  このように、思うこと(思想)と、知ること(知識)の区別は
  重要なことであって、われわれの生活上の不幸は、ソクラテス
  教えているように、「知らないことを知っているように思う」
  ことから由来するものがほとんどである。


  わが国で、「科学」と訳されているのは、西洋で「サイエンス
  (Science)」と呼ばれているもののことであるが、これは
  ギリシア語で「エピステーメー(Episteme)」(知識)と呼ぼう
  とするものにその起源がある。

  アリストテレスは『形而上学』第四巻において、他の学が
  「有の一部を切り離して、その部分にのみ限られた有を考察する」
  のに対して、「形而上学」は、「有を有として考察し、有が
  有であるかぎりにおいて、これに付属するものを全体的普遍的に
  考察するエピステーメー(知識)」として構想されている。

  つまり、両者は「全体的普遍的な」、また「部分的特殊な」
  「知識」であって、「知識」であることは同じである。


  ヘーゲルは、われわれの経験というものがすべてすでに完了した
  形で与えられており、あとはこれを精錬するだけだと考えるので
  ついには「絶対知」というものが完成することになる。

  しかし、現実には、世界の歴史が完了した保証はどこにもない
  のであって、われわれの思想は、われわれの新しい経験とともに
  あとからあとから、常に、いまある知識の外にはみ出して
  生まれてくる、ということになる。


       フォト


     (図:「ペーゲルの構想、思想・科学・哲学」参照)



  しかし、考えてみると、もし「哲学」というものが、アリストテレス
  が構想したように、すべての科学の共通の問題を扱う基礎学の
  地位を占め、「万学の女王」として哲学の名誉が保持される
  ということは、一方で、「基礎学」や「普遍学」は、数学や
  論理学のように、あるひとつの特殊な科学になってしまい、
  もともとアリストテレスが構想した「全体的考察」とは
  遠く隔たったものになっていないか。


  もし、このようになってしまったら、既存の特殊専門科学に
  「哲学」という名の、新たな特殊専門的な科学が追加されるだけで
  本来の「哲学」というものはどこへ行ってしまったのか。


  もし、「哲学」が特殊科学化の中で、なおかつ存在するとしたら
  それは「」としてあるのではなく、「愛知」としてある
  とも考えられる。

  たとえば、実証主義の「思想」の下での「科学」といものが
  はたして、それが「科学の範囲内で、科学とし証明しうるか
  否か」への「疑問」という考え方、つまり「科学」を対象としうる
  「思想」こそ、「哲学」の名にふさわしいのではないか。


  これは、「科学」といものが歴史に登場してからの以降の
  ことであって、すべては「科学」に収斂するかのように思われた。





        フォト


   
          19世紀のベルリン大学
 
    

  たとえば、1840年代のはじめ、シェリングベルリン大学
  第六講義室で哲学を講じたとき、人々は、世界史の運命はここで
  決定されるかのように思い集まってきた。

  政界の指導者や老軍人が若い学生の隣に席を占め、マルクス
  エンゲルス、そしてキルケゴールらとともに肩を並べて聴講した
  という。


  しかし。このような思想あるいは哲学はすぐに崩れ、1850年から
  1870年にかけ、もはや市民は「哲学」を思い出すことはなく、
  もっぱら、実証科学、とくに自然科学のめざましい発展に目が
  向くようになった。


  「事物につくものは強く、思想は弱い」ということであろうか。

  思想は事物の知識とは区別され、事物の直接の役には立たない。
  しかし、われわれ人間は、やはり何かを考え何かを思うのが
  つねである。いんなる行動も、また生活も、まったく思想なしに
  行えるものではない。

  流行は、人々にしばしば羞恥心を忘れさせる。流行とは、
  人々を支配し行動させる、一種の思想である。

  また、われわれは、ときに生命の危険を冒し、あらゆる困難に
  耐えようとするが、これも、われわれの信念であり、思想の
  ゆえなのである。

  歴史はこれら人類の、思想の陳列場でもある。
  ヘーゲルは、哲学の歴史が、一見して「馬鹿げた考えの陳列場」の
  観を呈していることに注意を促したが、人類の歴史、世界の歴史も
  また、一面からすれば、「人類愚行の陳列場」となるであろう。


  しかしながら、人間の考えてきたこと、これらは果たしてみな
  すべてまったく無意味なのだろうか。

  そう考えるのも、これもひつとの「思想」ではあるが、思想から
  何を見るのか。どのような思想から、どのような行為が生まれ、
  どのような生活が営まれるようになるのか。

  ひと、さまざまである。

  無意味と見える人間の生活や、人間の歴史のうちに、何か隠れた
  意味があり、人類救済の神の見えざる手が働いているのだろうか。

  むずかしく、重たい問題である。

  しかし、われわれに勇気と希望を与える思想や哲学が、もし
  理想主義と呼ばれるのなら、それは、ソクラテスやプラトン
  昔から、人類の歴史を動かし、大きな力となって現在至っている。


  思想は、直接的には、見えないし働かない。しかし、しばしば
  見逃され、気づかれないけれども、それは間接的に、人間そのものを
  支配し、世界を支配している。

  ただ、それはいつも、逸脱、過失などの危険をともない、幸福よりも
  不幸を招く原因ともなった。




      フォト       

        ソクラテス



  「知らない」ことを「知っている」と思うこと、このことに
  ついてのソクラテスの警告を、二千数百年を経た今日においても
  なお意味をもつものとして噛み締めながら、われわれは
  われわれ自身の、思うこと、考えること、私自身の思想のあり方を
  確かめていきたいものである。

     (適宜、抜粋・要約を施した)


※参照 :「時代とは人々の連なりのこと」 トピック

  ・2006年06月16日





 
■案内
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■参照
  ・人生と文学と政治(1)
  ・人生と文学と政治(2)
  ・人生と文学と政治(3)
  ・人生と文学と政治(4)
  ・人生と文学と政治(5)
  ・人生と文学と政治(6)
  ・人生と文学と政治(7)
  ・人生と文学と政治(8)
  ・人生と文学と政治(9)
  ・人生と文学と政治(10)
  ・人生と文学と政治(11)



■参考
  ・「人生と文学と政治」資料


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