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2006年06月15日19:03

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●身辺雑記(74)/■人生と文学と政治 (2)

■人生と文学と政治 (2)

 ― 一本の糸で綴られた「本」たち ―



●雨が降っている。しとしと降っている。
 九州ではかなり降っているという。
 宮崎もよく降っているようだ。大分の「カホル君」さんのところでも
 雨は激しく降っているのだろうか。

 今夜は、月も出ないだろう。


 ●「あんたっていう人は、ちっとばっかし
   調子がいいと、すぐこれなんだから・・!」

  と、パソコンいじっていたら妻に言われた。

  そのとおりなのだが、実際、胃の調子はいいのである。

  20年以上も医院に通い、20年以上も同じ処方の薬を飲む。
  無理をしたとき、徹夜が続き、タバコをふかし、コーヒーを飲み、
  メシはあまり食わず、睡眠が不足すると、胃はシクシクと
  痛み出す。ほんとうに胃は泣いてるようだ。

  そして、そんなとき、その薬を飲む。食後3回の粉末の薬と
  錠剤1錠を、そして寝る前には、カプセル錠をひとつ飲む。

  すると、だいたい2、3日で治る。


 ●去年9月に2週間分もらって、それが切れてしまっていた。
  2番目のマンション管理人の仕事を5月11日付けで辞めたため
  そこの組合健保の資格を喪失したが、事務上、加入手続きが
  完了したのは、きのう、である。

  組合健保の資格喪失の翌日から、国民健康保険の加入義務は
  発生し、もちろん、国保の保険料の5月分は日割り計算でなく
  全額を、組合健保の5月分とも併せてダブりで支払うというのに、
  保険証の発行は、急いで、きのうなのだ。


 ●もちろん、全額支払って、東医院に行って薬をもらい、あとで
  返還請求して3割負担を超えた7割分を戻してもらう方法は知って
  いるが、めんどくさいし、たとえ一時的にはあっても、なぜ
  立替払いをしなければならないのか、そのことに同意できないので
  痛いのをがまんして、きのうまで待つた。

  それと今回の痛み具合は、20代終わりに、はじめて胃潰瘍になって、
  布団にうずくまって脂汗を流したときのことを思い出させるような
  激しい痛みがあり、これまでの痛さと、痛むタイミングが異なっていた。

  妻に内緒で痛みをこらえているとき、で苦しみながらも、どこかで
  この懐かしい痛みを、親しく感じていたように思う。

  声は出せないので、呻(うめ)かないが、暗がりの布団の中で
  左肋骨下の胃の入り口の、昔の古傷が痛むその箇所の上に手を
  置き、じっとして思っていた。

  死ぬときも、このくらいの痛みは辛抱しなければならないだろうと。


 ●妻に、少しずつ情報開示をして、胃の痛いことを知らせた。

  「全額払ってもいいじゃないの。早く病院行きなさいよ」

  そう言われても、「う〜ん、そうやナー」と言いながら、私は
  東医院には行かず、どこまで耐えられるのだろうか、などと思い、
  やり過ごした。

  それが、きのうから、いつもの薬を飲んだとたん、さっぱりと
  調子がいいのである。

  昨夜も夜更かしして、「人生と文学と政治」などと、ご大層な
  タイトルをつけて、ああでもない、こうでもないことを書いている。

  それでも、胃は痛まないのである。



 ●さて、きのうからのことではあるが、私は何が書きたいのか。

  それは、「生きること」と、「書かれたもの」と、そして
  その間に介入してくる「政治」という事柄との、その三者の
  関係について、私がどう考え悩み、また先人がどう考え
  どんな所で立ち止まったのか、そんなことを考えてみようと
  思ってのことだ。

  タイトルどおりのことを正面きって論じることなど、私には
  できない。

  せいぜいが、背伸びして、衒学的(げんがくてき)にカッコウつけて
  言葉を並べるにすぎない。

  しかし、タイトルに挙げたこれらの事柄の方に向って、私自身が
  悩んだことや思ったこと、その事実には「自信」がある。と言うのも
  ヘンな話だが、「嘘はない」という点で、(人と比べる必要もない
  のだが)、ほんとうに、ずっーと、これらのことを考えていた
  ように思う。


 ●いや、実のところ、なんのことはない。私がいろいろ頭をぶつけた
  事柄とは、表現を変えれば、つまるところタイトルに掲げたこと。
  なぁんだ、そういうことだったのか、と、つい最近になって気づいた、
  ということだ。


  卑近ないろいろの事柄も、大きく捉えれば、そのことに逢着
  (ほうちゃく)する、ということを発見したのだ。


 ●だが、同時に私は知っている。

  私は、物書きでない。研究者ではない。
  読書家でも、決して知識人でもない。

  阿呆な、ヤバイ生活人にすぎない。
  そして、おっちょこいで、エエ格好しいで、
  底の割れた野郎にすぎない。

  だが、そんな人間でも、真剣に思うことはあるのだ。
  高い志ではないが、また、志に見合う努力も全くしない
  怠け者ではあるが、それでも、「私は生きた」というくらいの
  生き方はしたいと思っている。

  阿呆は阿呆なりに、「立派に生きたい」。そのくらいの志なら
  ある。

   「匹夫といえども、その志をうばう勿(なか)れ」である。



 ●そんなことで「本」を買ってきたのだ。
  馬鹿さ加減のついでに、きのう買った「本」を列記する。

  こんな「本」を買って、どうするの。

  まず、全部は読めもしないことは、買うときからわかっている。

  なら、なんで買うのか。
  アホのアホたる所以である。

  アホさ加減を開陳する。

  「narato's Books


  ・「新日本文学」の60年/鎌田 慧/七つ森書館
  ・近代日本文学史/三好 行雄/有斐閣
  ・大転換期―「60年代」の光茫/栗原 幸夫/インパクト出版会
  ・経済学の歴史―市場経済を読み解く/中村 達也ほか/有斐閣
  ・コア・テキスト経済学史/井上 義朗/新世社
  ・資本主義の世界史―1500‐1995/ミシェル ボー/藤原書店
  ・ジェントルマン資本主義の帝国〈1〉/P.J. ケイン/名古屋大学出版会
  ・ジェントルマン資本主義の帝国(2〉/P.J. ケイン/名古屋大学出版会
  ・マルクスに誘われて―みずみずしい思想を追う/的場 昭弘/亜紀書房
  ・学問の力/佐伯 啓思/NTT出版
  ・岩波新書の歴史―付・総目録1938-2006/鹿野 政直/岩波書店
  ・戦後史/中村 政則/岩波書店
  ・日本語の歴史/山口 仲美/岩波書店
  ・社会学入門―人間と社会の未来/見田 宗介/岩波書店
  ・漱石文明論集/夏目 漱石, 三好 行雄/岩波書店
  ・黄色い本―ジャック・チボーという名の友人/高野 文子/講談社
  ・日本少国民文庫 世界名作選〈1〉/山本 有三/新潮社
  ・日本少国民文庫 世界名作選〈2〉/山本 有三/新潮社
  ・真実一路/山本 有三/新潮社
  ・心に太陽を持て/山本 有三/新潮社
  ・路傍の石/山本 有三/新潮社



 ●我が家にやってきて、いまはもう亡くなった淡路の下の叔父が言った
  言葉を思い出す。

   「こんなに本を読まんと生きていけんモンかのー!」

  買うだけで、読みもしないのだから、私はもっと恥ずかしい。

  できれば、私は、ただ学びたいだけなのだ。

  だが、しかし、何かをすれば何かはできない。
  あれもこれもは、できない相談だ。


 ●見ていただいた、これらの「本」に脈絡はないように見えるかも
  しれないが、私にとっては一本の糸で綴られた「本、数珠つなぎ」
  なのだ。

  そして、前回の「大学紛争」「大学封鎖」にもつながり、タイトルへ
  と収斂(しゅうれん)する一連の「継続行為」でもあるのだ。

  だから、「本」を買ったのだ。

  

 ●いま、ある「詩」を一生懸命、探すのだが見つからない。

  それは小学生が書いた「詩」だった。



    せんせい、

    せんせいは、どうしてぼくたちに
    おしえてくれるのですか。
  
    なんのために おしえてくれるのですか。
    おかねのために おしえてくれるのですか。
 
    ぼくはそのことがしりたい。

  こんな内容の「子供の詩」だった。


  もうひとつ。これは、『村へ回帰しつつ超える』にあった。

    
     「こころ」  (6歳児)

    せんせいは
    なんのこころをもっているのですか
    それを おしえてください
    わたしは
    なんのこころをもっているのですか
    おしえてください。


  むかし、大学生が、先生に問うたのも同じことだ。

  腕力があり、生意気になって、しかし、十分な言葉に
  できないものだから、金魚がパクパクするような
  カタコトの呪文みたいな切れ切れのコトバを彼らは並べたのだ。


   「学問とは何なのか」「何のために学問はあるのか」
   「先生は何のために教えているのか」
   「おカネのためか、僕たちのためか」

  そして、勢いあまって棒を振り回したのだ。
  私は、棒は振り回さなかったが、「敗北について」に書いたように
  自分に闘って敗れた。

  敗れはしたが、「卑怯」ではなかった。
  若気の至り、智慧が足りないと言えば、そのとおりだ。

  しかし、決して「傍観者」や「卑怯者」や「したり顔の者」では
  なかった。

  「自分の問題」として捉えていた。



 ●当時、学問といえば、マルクスのほかにウェーバーがいた。

  シュンペーターや、ケインズサミュエルソンも読まれたが、
  まずは、教養はウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と
  資本主義の精神」あたりから始まった。


  マックス・ウェーバーの「職業としての学問」を読んだ。
  ウェーバーには「職業としての政治」もある。

  いま、考えると「職業として」の「学問」や「政治」が成立する
  不思議を、もっと真剣に気づくべきだった。

  
  仏典「阿含経(あごんきょう)」相応部「耕田」にこんな説話がある。

  ブッダはあるとき、托鉢に出かけた。そして、あるバラモン
  家の前に立った。バラモンは手伝いの人々に食物の分配をしていて
  忙しいときだった。鉢を抱えたブッダを見て、不機嫌にこう言った。

   「沙門よ、私どもは耕し、種を播(ま)き、そして食を得ている。
    沙門よ、汝もまた、耕し、種播いて、食を得たらばいかん」


  これは、道理である。

  「一日作さざれば、一日食らわず」(百丈禅師)。


  (あるいは、この言葉に、一瞬ブッダは息を呑み、また苦笑した
   かもしれない)


  仏典では、こう書かれいている。

  それを聞き、ブッダは静かに、こう言った。

   「バラモンよ、我も耕し、種を播き、食らうのである」

  このあとに「偈(げ)」(韻文のこと)が続く。


   「信はわが播く種である。
    智慧はわが耕す鋤(すき)である。
    身において、口において、また意において
    悪業をまもるは、わが田における除草である」


   「精進はわが牛であって、行いて退くことなく、
    行いて悲しむことがない。
    かくのごとく、われは種播き、甘露の実を収穫するのである」


 ●「信仰」は<職業>とは言うまい。そして、起源を求めれば
  「学問」しかり、「政治」しかり、「芸術」またしかりである。


  みな、「生きる」ことに収斂(しゅうれん)するのである。





 
■案内
  ・日記/「Home」案内


 
■参照
  ・人生と文学と政治(1)
  ・人生と文学と政治(2)
  ・人生と文学と政治(3)
  ・人生と文学と政治(4)
  ・人生と文学と政治(5)
  ・人生と文学と政治(6)
  ・人生と文学と政治(7)
  ・人生と文学と政治(8)
  ・人生と文学と政治(9)
  ・人生と文学と政治(10)
  ・人生と文学と政治(11)



■参考
  ・「人生と文学と政治」資料


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