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2025年04月13日13:55

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1966年4月16日「日生劇場ミュージック・フェア」。フランク永井と恩師吉田正の話

 1965年文化の日のフランク永井第2回リサイタルで歌われた長編歌謡組曲「慕情」が翌年4月「日生劇場ミュージック・フェア」でも歌われたことは、前回の記事で書きました。
 このときのパンフに、フランク永井の挨拶と、恩師吉田正の紹介が出ています。貴重な資料なので、この機会に再録させていただこうと思います。

【フランク永井
 今回の「日生劇場ミュージック・フェア」のしんがりをつとめて出演することになりましたが、第1部は「有楽町で逢いましょう」から「妻を恋うる唄」まで、ポピュラー、歌謡曲を含めて23曲ほどで、プログラムを構成してみました。
 これは、歌手生活11年の間に歌ったレパートリィの中で、ヒットしたものの中から選んだもので、お気に召せば幸いです。
 第2部は、昨年11月3日、公演し、芸術祭賞奨励賞をいただきましたリサイタルで発表し、私にとっても記念すべき作品となりました「慕情」を再演いたします。
 これは、恩師吉田正先生が、岩谷時子先生の詩に精魂こめてメロディをつけて下さったもので、歌手として、これだけの作品をいただいたことは、光栄であるとともに、オーケストラの編成その他の条件がスケールが大きいので、そう度々歌うチャンスがあるものでなく、今回の日生のステージでの再演は、私としても、全力をあげて歌いたいと思いますので、なにとぞ、よろしくご支援のほどをお願い申し上げます。】

【フランクと私 吉田正(作曲家)
 フランク永井が日本では得難い大人の歌手であることは今更言うまでもないが、ポヒュラー・ソングを歌ってビクター入りをした頃の紅顔の彼を想い起せば、よくここまでやってきたの感がひとしおである。人知れぬ苦労もあったろうし、悩みもしたであろう良い道を、時流に流されず克服し続けている彼のシンの強さと才能を私は深く愛してやまない。
 私が彼の流行歌のデビュー「場末のペット吹き」を作った昭和31年頃の歌謡界は美空ひばり、三橋美智也、春日八郎などの演歌調、あるいは民謡調が主流をしめていた。
 私にとしてもフランクにとしても大きなカベに向って挑戦したわけであるが、私はその2、3年前から鶴田浩二で「赤と黒のブルース」「好きだった」等の一連の都会ムード調を試みつつあったし、多少それが巷で話題にもなってきていたので、フランクの日本人ばなれした低いソフトな感触の声とジャズ的フィーリングを、そこに結びつけて生かしてみたいという気持ちが、後の彼との深いつながりになって成功したと思っている。
 当時は深夜喫茶が若者のメッカで、私はビクターのディレクター諸氏と一緒に、よく銀座新宿の深夜喫茶にたむろしたものである。そんなある夜、数寄屋橋通りでフランクの姿をみかけた。
 舗道のポプラ並木にもたれて、所在なげにズボンのポケットに手を突っ込んだ彼の姿に、何か言い知れぬ都会の夜の甘い哀愁がただよっていた。その時のヒントが「東京午前三時」を生んだ。全く彼のムードそのものだったと思う。
 私はこのレコードが発売されたとき、もしこれが売れなかったらこのスタイルの作品は、これでお終いにしようと決心した。5カ月後、はっきりヒットのきざしが見えて来て、次に作ったのが「夜霧の第二国道」、そして「有楽町で逢いましよう」につながるのである。私にとってもあの1年間は誠に感慨深い年であった。
 「夜霧の第二同道」についてもまた思い出がある。彼の運転するボンコツフォードに乗って深夜の第二京浜国道を横浜に向けて走ったころのことを……。フランクは巷に聞えたカーマニヤ。フルスピードで突っ走る車のディスクジョッキーを聞きながらふと考えた。
 運転しながら走りながら聴く歌は反ってゆっくりと落着いたしんみりとした歌がいいなあと、……そして吹込んだ歌が彼の魅力が存分に出ているあの歌なのだった。フランクは私が意図した以上に歌ってくれた。情愛をこめて、ていねいに。
 それから10年、フランクの歌手としての地位は第一級になっていった。私はこんな嬉しいことはない。彼の豊かな資質はますます磨きがかかって行くだろう。私は期待する。これからは自分のパターンに固執しないで幅広い仕事をやっていってもらいたいと……。】

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