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2021年04月20日12:58

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フランク永井第四回リサイタル 資料6 プログラムと挨拶

 フランク永井リサイタル「輝ける21年の足跡」
 アルバムは、1977(S51)年1月に発売(SJX-8046〜7)されました。

昭和51年10月28日(木)大阪厚生年金会館大ホール(大阪芸術祭参加)
昭和51年11月3日(祭)東京中野サンプラザ

監修=吉田 正
構成=桧原敏春
演出=小野康憲
照明/美術=今井直次
編曲=寺岡真三/近藤 進/服部克久
演奏=北野タダオとアロー・ジャズオーケストラ+ストリングス(大阪)
   原信夫とシャープス&フラッツ+ストリングス(東京)
合唱=エバ・シンガーズ(大阪)/コール・セレステ(東京)
主催=ビクター音楽産業株式会社
後援=ビクター音楽出版株式会社
制作=ビクター芸能株式会社

《第一部》
 1. 君恋し
 2. 夜霧の第二国道
 3. 夜霧に消えたチャコ
 4. 有楽町で逢いましょう
 5. 〔メドレー33曲〕(ラバー・カムバック・トウ・ミー)
 6. 霧子のタンゴ
 7. 俺は淋しいんだ
 8. 東京午前三時
 9. 浮気川
10. 妻を恋うる唄
《第二部》
 1. 大阪ぐらし
 2. 〔メドレー〕(大阪野郎/船場ごころ/大阪ながし/大阪ろまん/加茂川ブルース)
 3. こいさんのラブコール
 4. ふるさとの風
 5. 恋夜
 6. きっときっときっと
 7. 船頭小唄
 8. ゴンドラの唄
 9. さすらいの唄
10. ウェア・ザ・ブルー・オブ・ザ・ナイト
11. アズ・タイム・ゴーズ・バイ
12. 枯葉
13. オール・オブ・ミー
14. 行ってしまったお前(新曲)
15. そっとしといてあげるから(新曲)
16. 霧子のタンゴ・パート�供平袈福�
17. おまえに

あいさつ
フランク永井
 皆様、本日はようこそおいでくださいました。
 思えば、昭和29年頃、東京の都心から一時間あまり、国電を2度乗り換え、最後は進駐軍の幌のついたトラックに揺られて、埼玉県朝霞町の米軍キャンプの下士官クラブで歌っていた時期。
 楽譜のアレンジ代に追われて、日本テレビの、のど自慢番組に賞金稼ぎのため出場しました。
 その時にめぐり逢ったのが、ビクターレコードの小野中三氏(現ビクター芸能監査役)でした。氏の手引きでビクターに入社して、遂に吉田正先生にお目にかかることになります。
 昭和30年秋入社、ご存じ「有楽町で逢いましょう」のヒットが昭和32年ですから、三年間の低迷がありました。今のご時勢でしたら、せいぜい半年ぐらいで放り出されていたかも知れません。三年間も我慢して下さった会社の皆さんに、今もって感謝しております。世の中で、私ほど人間関係に恵まれた男はいないと思っております。
 とりわけ、吉田先生は、私の歌の先生という以外に、私のすべての師匠で、ご紹介下さったその友人の方々は素晴しい方ばかり、その方々も、即、私の師でありました。
 その後も、いろいろな分野の方にお目にかかる機会を得、教えていただくことばかりで、世の中に、自分ほど幸せな歌い手はあるまいと、つくづく考える所以でございます。
 そして私、フランク永井が今ありますのも、デビュー以来21年間、変らぬご贔屓を下さったファンの皆様のおかげでございます。心からお礼を申し上ます。
 感謝の念をこめて、このリサイタルをお送りいたします。お楽しみ頂ければこの上の喜びはございません。
 本日は、まことにありがとう存じます。

プラス1年の重み
ビクター音楽産業株式会社 代表取締役社長 渡辺三郎
 きょうフランク永井さんは、歌手生活二十一年目のリサイタルを開かれることになり、大変おめでとうございます。
 この二十一年間の重みは、私たちレコードにたずさわる者にとって、なにものにも替えがたいものだ、と考えないわけにはまいりません。
 もうすでに多くの方々が、ご存知のようにこのフランクさんの歩みは、そのまま、戦後のレコード産業の歩みといっても過言ではないと思います。
 この二十年間、レコード界は、高度成長の下に大きく躍進してまいりました。それは、レコード生産の飛躍的増加といった数の面だけでなく、音楽の形の上での質的な向上といった面も合わせて、レコード史上かつてないほどの成長でありました。
 この間に、フランク永井さんの果たされた役割は、極めて大きなものがありました。という以上に、フランク永井さんの力が、レコードの高度成長のきっかけになった、といっても言い過ぎではないと思います。
 そして、二十年の高度成長を遂げたレコード界は、今年に入って、再び大きな変動を見せ始めております。
 この様な動きを考えますと、きょうのフランク永井さんの二十一年目のリサイタルは、極めて暗示的で意義あるものと存じます。
 フランク永井さんは、こんどのリサイタルを前に「新しい一年目の出発しということを盛んに語っておられます。
 この言葉は、とりもなおさす、レコード界にもそのままあてはまるものではないか、といま、痛切に感じております。
 高度の成長を果たしたビクターと共にあったフランク永井さんのリサイタルを前に、私は二十年プラス一年の重みを、しみじみ感じないわけにはまいりません。
 常に前進してやまないフランク永井さんは、本日のリサイタルを新たなスタートとして従来以上の情熱をもって、歌に専念されるものと信じます。
 ご来会の皆様とともに、フランク永井さんのご健康と益々のご活躍をお祈りして、ご挨拶といたします。

名実共に大歌手へ
ビクター音楽産業株式会 社取締役制作本部長 滝井利信
 フランク永井さん、リサイタルおめでとうございます。心からお喜び申し上げます。
 思えば、二十年前、ビクターは、復興のきざしは見えたものの、大変苦しい頃でした。そんな時、デビューされたあなたは、ユニークな低音の魅力で、一躍ムード歌謡ブームを呼びび起こし、昭和三十年代のビクターの黄金時代を築き上げてくれたのです。
 そして、吉田先生のあの不朽の名曲「有楽町で逢いましょう」をはじめとして、レコードの面で数々の大ヒットを世に送り出し「日本レコード大賞」「歌唱賞」など数多く栄えある賞を受賞されております。
 また、フランク永井さんは、ステージの面でも「芸術祭大衆芸能部門優秀賞」の再度の受賞など、優れたエンターティナーとしでの評価も受け、さらに、昭和四十六年には、歌手としてはじめての「芸術選奨文部大臣賞」を受賞されるなど、名実共に大歌手の道を歩んでこられました。
 私も、フランク永井さんとは、デビュー以来、フランクさんは歌手として、私はレコード制作の現場として、公私にわたり親しくお付き合いいただいておりますが、大のフランク永井フアンであると同時に、かように素晴らしい歌手といっしょに仕事が出来たことは、制作者としてこれ以上の喜びはございません。
 二十年をひとつの節として、新たな一年目のこのリサイタルを契機に、日本の、いや世界の歌手として、エンターテイナーとして、さらに大きく飛躍されることをお祈りして、ご挨拶にかえさせていただきます。


リサイタルに寄せて
ビクター芸能株式会社 ビクター音楽出版株式会社 代表取締役 島崎文雄
 フランク永井さん、今日のリサイタル、おめでとうございます。
 フランクさんをビクターにお迎えしたのは、昭和三十年でございました。今年で二十一年になるわけでございます。
 この間、東京において三回のリサイタルが成功裡に行われ、二回目のリサイタルで芸術祭に参加し、大衆芸能部門の奨励賞を受賞されたことを記憶いたしております。
 今回のリサイタルが、東京のみならず、フランクさんの歌に大変ゆかりの深い大阪においでも開催出来ましたことは、ご本人は勿論のこと、主催者のビクター音楽産業株式会社にとっても、大変意義深いことと存じます。
 変動の激しい戦後の歌謡界にありまして、数多くの賞に輝き、二十年を越える長い歌手生命を保ったばかりでなく、世の人気を博すということは、並大抵のことでなく、常日ごろのご努力の結果によるものと、深く敬意を表したいと存じます。
 本日のリサイタルが、吉田先生はじめスタッフの諸先生方のご協力により、素晴らしく盛大にひらかれるに当り、心からお祝いを申しあげますと共に、ファンのみなさまのあたたかいご支援により、フランクさんの芸術活動が今後、一層みのり多きことをお祈りいたします。

おめでとう! フランク永井
佐伯孝夫
 「…先日、フランク永井さんのレコードを耳にしました。今聴いても新しい心憎いばかりの語り口の詞に、頭がさがります…」。
 これは久しく音信の絶えていた、神戸の、いささか知的な二十歳過ぎのお嬢さんからの手紙の中の一節で、私はフランクさんの一途な新鮮さを、再確認して本当にうれしい気になり、何度も読み返しました。
 フランクさんがデビューしてから、もう二十一年にもなるとのことですが、常に「フランク永井」でありつづけた、精進と芯の強さに頭のさがる想いです。
 この珍しい、自分を崩さない歌手さんは本当に、賞讃さるべき存在と信じきっております。
 個性にあふれ、東北人らしい民謡育ちの深い根を失うことなく、しっかりした態度と素直さを身につけ、ハタから何か言われても、自分の気持ちをつら抜き通し、強くその人間味あふれる暖かさを表現しつづけて、変わらない魅力を私たち庶民に与えつづけて、共感されているということは、容易なことではないと思います。
 この人間的魅力、郷土の土から生まれた才能に花を咲かせたのは、同じ東北系の恩師吉田正先生のご努力だったと思います。夜二時ごろ突然先生宅を訪れ、そのときどきの悩みや心情を、空が白むまできいで貰い、また新しい出発への鼓舞を得たということも度々だったとのことです。
 五年毎に催すフランクさんの、今度のリサイタルは、真実重厚、楽しいと言うより、そこからまた「明日への出発」の芽がみどり豊かに感得され、私たちに喜びを与えてくれると信じて疑いません。
 フランク永井さん、おめでとう!

エンターテナーフラング永井
吉田 正
 もう十四、五年になるが、一夕、親しいジャーナリストの人たちと、フランク永井を囲んで歓談したことがあった。
 フランク永井も若かったし、私も若かった。そんな中で、たまたま、彼のワンマン・ショーをどんな形で作ったらいいだろう、という話が出た。
 当時、日本では、ワンマン・ショーという形は、そう多くはなかった。その多くは、いわゆる歌謡大会という形式の興行だった。それだけに、彼を素材にしたワンマン・ショーという話に華が咲いた。
 いまでも、私が鮮明に覚えているのは、誰いうとなく�爛魯奪肇�フ(脱帽)フランク�瓩箸いΕ織ぅ肇襪鬚弔韻燭蕕匹Δ世蹐Α△箸いΠ娶�が出たことだった。
 時が経ち、季節が流れた。
 いま、フランク永井は、二十一年目のリサイタルを迎えようとしている。
 この間、日本は大きく変わった。歌謡界の地図も塗り変えられたし、歌謡の型も、外形的には多様となった。いうなれば、この間は、激動の二十年だった。
 こんな中で、終始変わらずに第一線で歌い続けるということは難事である。私の周囲でも、数多くの歌手が登場し消えていった。それぞれにそれなりの理由はあった。
 しかし、よんかく、数多い歌手が出ては、消えていったという事実はまぎれようもない事実である。
 歌手として第一線で生き続けるということは、このような事実を前にして考えると、想像以上に難事なのである。
 フランク永井は、今日も、舞台では、さりげない表情で自分の歌を、気軽に歌うに違いない。
 二十年間第一線で生き続けてきた難しさ、辛さは、恐らくそんな彼のステージからは感じとれないかも知れない。しかし、そのさりげなさが、彼の財産なのである。
 観客を楽しませるエンターテイナーとしての彼の資質を、私も今宵ゆっくり楽しみたい。

フフンク水井と銀座
小倉友昭
 『銀座も変ったもんですね。銀座に来て、酒を飲みながら「妻を恋うる歌」を聴くなんて考えもしなかった。だって、考えてもみで下さい。酒場は、男の遊ぶ所でしょ。いうなれば、お内儀さんから逃げて、何となくリラックスしようという男たちの逃避場でしょ。そこで“妻を恋うる”じゃ、せっかくのお楽しみも、かたなしになっちゃう、と考えるのが、ふつうでしょう。銀座も変ったもんですね』。
 フランク永井の手には、例によって、レミー・マルタンのグラスがあった。
 銀座でも一流といわれるクラブS。小柄なフィリッピン生れの歌手が、のぴのある声で「妻を恋うる歌」を歌っている。
 フランク永井は、そんな歌手の歌を聴きながら、しみじみつぶやいたものだ。
 銀座で飲み、祇園で痛飲し、先斗町で梯子酒を仕込まれて、したたかな飲み手となったフランク永井の、これが、最近の銀座遊びでの述懐だった。
 「変ったもんですね」を繰り返す彼の言葉には、様々な想念が絡みついているようにも思えた。
 考えてみれば、都会派歌手として登場してきた彼にとって、公私ともに東京・銀座は、忘れ難い場所だろう。初期の歌、いわば彼の方向を決定づけた「東京午前三時」も、歌の舞台は銀座のはずである。約二十年前の銀座は、いまのように、バーやクラブなどのハネ時になると、タクシーが群らがる銀座ではなかった。だから「似た娘乗せゆくキャデラック、テイル・ランプがただ赤い」といったやるせないような大らかな哀愁があった。
 「銀座は変ったもんですね」彼ならずともそうつぶやきたくなる変りようだ。
 「西銀座駅前」が出来たころ、このあたり、まだ銀座のはずれだった。もっとも正確にいえば、西銀座駅というのは無い。しかし、それが、いまでもあるように思えるのは、歌の力だろう。
�犲磴て鷽佑蓮▲献礇叉蔽祗瓩箸いΕ侫譟璽困癲△い泙任蓮▲献礇叉蔽磴修里發里�、銀座には無くなってしまっているのだから、これも、やはり「銀座は変ったもんですね」ということになる。
 そんな銀座は、しかし、やはり、歌の流行でも、ある先端を行っていることは変らない。僕が、彼の「おまえに」を「とってもいい歌だから、ぜひ聴いて…」と銀座のお嬢さんたちにせがまれて、リクエストしたのは一昨年の秋だった。
 それから約二年後のいま「おまえに」は、完全なスタンダード・ナンバーとして、銀座のどこかで必ず歌われる歌になった。変った銀座で、変らないものがある、というわけである。
 「やっぱり遊ばなけりゃいけません。お酒も飲まなけりゃいけません。心が豊かに新鮮でなければ、歌も枯れてしまいます」。
 ともかく、外形は、変った銀座で、フランク永井は、頑固にコニャックを飲み続け、変らない台詞をいい続ける。

日本語とフフンク、「和魂洋才」の歌手
佐藤 泉
 政治家が選挙で言うことは、たいてい嘘である。だいたい嘘は申しませんとか、正直いって…とかいうことを日常会話の中によく使う人があるが、このこと自体が嘘なのであって、ほんとうのことを言っていれば、何もことさらに、こんな不自然な言葉を使う必要はないだろう。
 「嘘は申しません」ということは、よく嘘を言う証拠なのである。言葉とは難しいものだと思う。
 「人柄」があるように「言葉柄」というのもある。人間の顔は内面を描きだすように、言葉は内面を表すものだ。フランク永井は、ふだんでも言葉を選びながら慎重にしゃべる。思うに、性格も慎重そのものなのか。
 彼は宮城県出身である。もう二十年余の付き合いだというのに、一向に東北訛りを耳にしたおぼえすらない。それも道理で、フランク自身の話では「宮城県に住んでいた当時から、意識すれば、比較的標準語めいた言葉もしゃべることが出来た」そうである。これに加えて昭和27年に上京、駐留軍のキャンプで働くようになってからは、いきおい英語(米語)に接する機会も多くなる。つまり東北訛りからワンクッションをおいた形で、標準語めいた日本語へ自然と移入していた。もはや東北訛りの出る幕はなかった――と思うのである。
 フランクは人も知る落語好きだ。噺家との交遊も多い。もとから落語が好きだったところへもってきて、彼には東京訛り、つまりは江戸江戸訛りへの憧れがあったらしい。寄席へ通い、先代柳好や志ん生の噺を耳でおぼえ込むようになる。
 なんたってアータ(あんた)耳のほうは商売が商売だけに�狄�るつき”に上等ときてる。たちまちマスターしちまった。
 このごろでは江戸っ子(四代目)を自負する、私の言葉に訂正を申し入れる始末なのである。
 言葉にうるさいくらいだから、本職の歌では歌詞を明瞭に正確に歌いあげる。これだけでも聞いていて大変に気持ちがよい。詞を大切にする歌い手さんたちが、少なくなってきた。
 ビング・クロスビーとフランク・シナトラの唄にしびれたのが、歌手へのきっかけだった。思うに、フランク永井は「和魂洋才」の歌手なのである。日本語を愛し理解し、かつ西洋のフィーリングで自分なりの歌をつくり上げていく。
 このごろでは、この「和魂」が日本の歌から行方不明になってしまった。

フランクとゴルフと私
河塚順一郎
 フテンク永井がデビュー二十一年目に新曲�猊盖だ遶瓩魄�っ下げて京都入りしたとき、私に逢うなり見せたのが、最近のゴルフ・スコア・カードである。こういうときは決まって好調な証拠と私は受けとっている。
 それもニヤリと笑みを浮かべながら「最近の調子はどう」とくる。そういうときはたいてい、こっちの調子はメタメタのことが多い。優劣たちどころに変わるというか、またまた越えられないカベを意識した劣等感に災いなまれるのである。
 まことにゆゆしき因縁であるが、一面これが会話となるようになって、一段と彼との話が簡単に出来るのだから不思議だ。
 フランクと知り合って十数年、昔は何かというと飲むことしか知らなかった。�狢膾紊阿蕕掘蹐里茲気蓮⊆鬚砲△蠅箸いΔ箸海蹐世辰拭�
 とても“こいさんのラブ・コール�瓩箸いΑ△靴磴譴燭發里任呂覆�った。それがどういうわけか、お互いに示し合わせたわけでもないのに、ゴルフを知ったのである。こと細かく聞いたわけではないが、だいたい始めた時期もそう差はない。
 それまでは�爛乾襯佞覆鼻△匹海�面白いねん、朝早く起きてフーフーいって回って、小さい球を追っかけて”というしだいだった。その点の意見も共通していた。
 ところが変われば変わるもの、やり始めてみると、これぐらい面白いものはないとなった。
 そうしたころに再びフランクに出合った。初めは仕事一途の話ばかりしていたが、よくよくみると顔が日焼けしている、手首に白黒のコントラストがある――「お主、やってるな――」「いや、そういえばあんたも――」でどっと笑った。
 じっくり歌っていて火のついた�爐�まえに″のころである。
 だからゴルフ歴については、お互い四、五年というところだろう。だが、自然に差がついてしまった。何をやるにも人一倍熱心と自負する二人だが、彼はプロにもつき、マイコースを得て、レッスン、試合とも経験を重ねていった。一方、私の方は休日だけのゴルフなので、棟習皆無、すぐ本番だからペースの違いは歴然である。これでみるみる10ストローク以上にも、実力が開いてしまった。
 それにフランクはいち早く。ホールインワン�瓩魴茲瓩拭�それも大阪のPLゴルフの東の8番で、である。「やったな」というと、彼は申しわけなさそうに「いや、スプー(ウッド3番)で打って、みえなかったのが入ってた。ウッドだからね」と説明する。
 ウッドであろうが、アイアンであろうが入ったことには、間違いないというと、納得したような顔になった。
 ゴルフ・ブームといわれて久しい。ゴルフ場も多く出来たし、ゴルフ人口も何百万という。
とうとう二人とも上手下手は別にして“狂″に近いところまでいってしまった。あとは、いつ自分の力を達観するかである。
 “浮気川″であるうちはまだやる気十分、こっちもウサギとカメを決めこんで“そのうちに″とフランクを追っかけている。ゴルフをやることで英気がつき、あすの仕事へのプラスとなれば、また楽しである。
 私とフランクのゴルフ談義、まだしばらく続くことだろう。もっともそんな話、ゴルフを知らない人の前でゴルフの話をするのは、エチケットに反する――、相すみません。

ステージの魅力
池田弥三郎
 テレビやラジオやレコードで承知しているフランク永井さんと、ステージの彼と、同じ人であり、同じ芸でありながら、ずいぶんその魅力に異質なものがある。
 どっちがいいと、いちがいには言えないけれども、行儀のいい、きちんとした芸である前者に対して、ステージで、聴衆とともにあるフランク永井さんの、自由でのびのびとした芸の魅力は、また、なんとも言えぬ魅力がある。
 そこには彼の歌の一つ一つが、一つ一つ別にあるのではなくて、大きな流れの中の一つ一つとしてある。そこには、しゃべり手としての彼の才気の縦横な喚発がある。これはフランク永井さんの推賞すべき魅力である。
 そういう会場での録音をもとにしたLPには、もちろんその魅力がうかがわれはするけれども、何といってもそれは一つのわくの中に入れられてしまっていて、自由自在な発散が少ない。ステージの彼の芸に、思う存分に触れたいものだと思う。

それだけの話
江園 滋
 フランク永井が熱烈な落語愛好家であることは、いまではよく知られている。その愛好の度合いも、通りいっペんの落語好きとか、落語愛を超えた、それはもう落語への恋とでもいうような、純度の高いものであって、しかも灼熱の恋が一向にさめる気配もないところがみごとである。
 むかし、某テレビ局がフランク永井ワンマンショーを企画して、その中で小咄を一席披露してほしいという、注文をだしたことがあった。プロデューサーにしてみれば、落語好きの歌手の、どうせ余技なのだから、羽織を着て出てくるだけでご愛嬌であり、咄の巧拙などはどうでもいいというように、ごく気楽に考えていたのだろうと思う。
 それはそれで一つの考え方ではあるけれども、余技だからといっていい加減なごまかしでお茶をにごすことは、エンターティナーとしてなすべきではないという考え方のほうが、考え方としてはやっぱり正統だろう。フランクの考え方は、断然後者であって、したがって、引き受けたからには、だれに聞かせてもはずかしくないだけの小咄を演じたい。
 ついては専門家に乞うて、本格的に稽古をつけてもらおうと思う。然るべき落語家を紹介してもらえないか、という電話が、フランクからかかってきた。
 「若手で、しっかりした芸風の噺家さんがいいんだけれど、だれかいませんか」
 「います」
 「紹介してくれる?」
 「おやすいご用だけど、しかし、フランクさん本気なの?」
 「もちろん」
 「わかった。それで――」
 それでは「この人なら」と絶対の自信をもって、その当時の若手に属する有望落語家を紹介した。
 稽古は何度か行われたようだったが、そのたびにフランクは、弟子としての最大最高の敬意を払って、その若手落語家を師と仰ぎ、申し分のない接し方をしたらしい。
 真摯な態度に感動した言葉が、まだ耳元に残っている。
 「どんな世界でも、一流になる人はちがいますね」
 あれから六、七年たって、その落語家は押しも押されもしない中堅真打として目ざましい活躍を続けているが、その間にも、フランクは常に師と仰ぎっばなしで、はたの見る目にもうるわしい師弟関係を一貫して維持してきた。
 それだけの話である。それだけの話なんだけれども、たかだか二分か三分の放送のために、いろはの「い」から、きちんと手順を踏まなければ気がすまないという、フランクの正統派的感覚が、私にはすこぶる好ましい。
 歌の世界だけでなく、ありとあらゆる分野に正統派ならざる�犲衄瓦�派�瓩�まかり通るご時勢であるからこそ、フランクの姿勢はいっそう貴重である。
 歌手生活21年目を迎えたフランク永井の、これから先きの歳月が、私にはたのしみでならない。

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