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2023年12月03日11:13

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【記録資料】片岡義男「歌謡曲が聴こえる」でのフランク永井2

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   【第12回フランク永井歌コンクール告知】
 2024(R6)年3月16日(土)17日(日) 大崎市松山体育館
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   フランク永井 歌コンクール official サイト
     https://f-nagai.m-machikyo.com/
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 前回に引き続いて、片岡義男の「歌謡曲が聴こえる」から引用させていただきます。
 この回はフランク永井ファンならよくご存じのデビュー前の、さまざまなエピソードを書いています。特に「のど自慢荒らし」は有名です。
 ただ、この項で片岡は懐メロをカバーしたフランク永井の歌唱に触れていますが、この評価は素晴らしいものです。

【◆のど自慢荒らし
 1950年代なかばから1960年代の後半にかけて、重層してやまない複雑さを内部へかかえ込みながら、東京へのほとんどあらゆるものの一転集中が、それまでにはなかった内容と展開で急激に進行した。増え続ける新商品によって更新され続ける東京は、消費によって参加することの出来る新世界だった。その新世界を歓迎することは、それまでの旧世界、たとえば1950年代と、決定的に決別することだった。決別することの価値を体現したもののひとつが、低音だったのではなかったか。そしてその低音が引き受けたのは、東京における都会情緒の最前線のイメージを、歌に転換することだった。
 僕の好きな歌をあげてみよう。「有楽町で逢いましょう」を別にすると、「夜霧の第二国道」「羽田発7時50分」「こいさんのラブ・コール」「霧子のタンゴ」「大阪ぐらし」「東京しぐれ」となる。大阪を舞台にした歌がふたつある。ここでは大阪は東京の延長だ。東京情緒を大阪でも試みたもの、と理解すればいい。どれもいい歌だ。良く出来ている。作者たちの意図は狙ったところに見事に命中した。しかし、狙ったところそのものが持った基本的な危うさのようなものが、どの歌にも、どことは言い難く、あらわれているような気がする。
 フランク永井が現役だった頃には懐かしのメロディと呼ばれていた、戦前から戦後まだ間もない頃までの期間にヒットした歌謡曲を、彼は数多く歌っている。
 歌は世につれ、といった現実からはすでに完全に解放され、あらゆる時代を超越して、どの歌も純粋にそれぞれの歌へと還元されているから、カヴァーの出来ばえはそれを試みる人の実力次第という、厳しい素材だ。フランク永井による歌いぶりは至宝と呼ぶべきものであり、それらの歌に僕はゆるぎのなきを強く感じる。
 歌詞はなにかとかを狙って放たれた言葉ではないから、歌のなかで積み重なっていくイメージは、すんなりと普遍へ向かい、それを聴く人の気持ちは解放される。
 いまあげた僕の好きな歌は、それらが作られた時代のなかへ、聴く人を常に導き入れる。その時代には存在したなにごとかが想定され、それに沿ってイメージの言葉が重なっていくからだ。聴く人を閉じ込めるようなことはないけれど、普遍には向かわない。僕がこれらの歌に感じる危うさの理由はそこにある。
 LPやCDのライナー・ノートに断片的に記載してある事柄を拾い集め、レコード・デビューにいたるまでのフランク永井の、簡略なバイオグラフイを試みてみよう。1932年に生まれた彼はなに不自由なく育ち、幼少の頃から歌手への強い憧れを見せたという。1948年頃に上京し、兄が働いていたアメリカ軍基地で、トレーラーの運転手その他、さまざまな仕事を体験した。まだ十代の少年だった彼は、持って生まれた性格の良さによってだろう、基地内で接するアメリカ兵士たちに好かれた。フランクという愛称で呼ばれ、日常の英語やジャズ、ソングを教わった。この頃の彼はビング・クロスビーをことのほか好んでいて、真似しては歌っていたという。好きで真似していれば、そして教えてくれる人がいれば、少しずつ上達する。英語にせよジャズ・ソングにせよ、教えられたことを正確に記憶して自分の声で再現することが、彼には巧みに出来たようだ。
 1952年、おそらく基地の外で、彼は自動車事故あった。入院して治療を受ける日々となった彼はラジオで進駐軍放送を聴くのが好きだった。ジャズが放送されていたからだ。しかし常にジャズが放送されたわけではないから、日本の他のチャンネルで、好みの番組を探しては聴いていた。そのなかに、文化放送で週に一度、定期的に放送されていた、「素人ジャズのど自慢」という番組があった。
 中学生の頃、僕はこの番組をほとんど毎週、聴いていた。キスミー化粧品という名の会社が提供していた、題名どおりの素人のど自慢の番組だった。観客のいる公開番組で、実況だったように思う。
 ステージにはバンドがいて、その伴奏に合わせて、ひとりずつ順に登場する参加者が、それぞれにジャズを歌った。鐘の音ひとつが最下位、三つ鳴ればそれは最高点った。うまい人はたまにいたが、これをどうすればいいのか、という次元の人たちが多く、僕が聴いていたのは丹下キヨ子がひとりでこなしていた司会ぶりだった。
 この人たちよりは自分のほうがはるかにうまい、と確信した彼は、この番組に登場して鐘を三つ鳴らした。これ以後、当時たくさんあったのど自慢に次々に登場しては、どこでも最高点を獲得するという、のど自慢荒らしとなった。朝霞にあったキャンプ・ドレイクというアメリカ軍基地で、歌手としての能力審査のテストを受けた。合格した彼はキャンプ・ドレイクの下士官クラブの専属歌手となった。月給は百ドルだったという。20歳あるいは21歳くらいの頃だ。給料をきちんと支払う日本の会社の、課長より少し上の金額だろう。
 下士官クラブの専属歌手とは言っても、仕事の時間がくれば歌えばいい、というものではなかったようだ。客の兵士たちを満足させなくてはいけないのだから、彼をひと月百ドルで雇った人は、彼をより良き歌手に向けて不断にトレーニングする必要があった。】

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