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2015年05月03日11:52

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フランク永井「夜霧の第二国道」などの作詞家宮川哲夫の展示会が東京・町田で開催中

 デビュー直後の時期にフランク永井にすぐれた作詞を多く提供した宮川哲夫(1922-1974)。昭和の時代と深く重なる彼の魅力的な詩の背景の全貌を「オールヒット!宮川哲夫〜昭和の街角を歌で綴る展」が、4月18日から6月28日までの期間で開かれている。この連休にもまだ間に合うので、ご興味がある方はぜひ訪ねてみてほしい。
 フランク永井は「有楽町で逢いましょう」で名前が全国的に知れ渡り、それをきっかけにしてデビュー以来のレコードが再注目される形で売れていったのだが、多くの作詞を提供した佐伯孝夫とともに優れた詞をつくっているのが宮川哲夫だ。ジャズから流行歌への転向第1曲目の「場末のペット吹き」をはじめとして、およそ60曲を書いている。以下のようなフランク永井の代表曲の詞を提供している。

  場末のペット吹き/花売り娘とギター弾き/羽田発7時50分/夜霧の第二国道/
  公園の手品師/初恋の山/夜霧に消えたチャコ/俺は流れ星/国道18 号線

 宮川はフランク永井以外に鶴田浩二に「街のサンドイッチマン」赤と黒のブルース」、宮城まり子「ガード下の靴磨き」、渡辺マリ「東京ドドンパ娘」、三田明「美しい十代」、橋幸夫「霧氷」と誰もが知っている歌を提供している。
 展示のパンフレットには次のような紹介がある。
 【昭和28年、繁華街でおどけてみせるサンドイッチマンの哀しみを歌った「街のサンドイッチマン」で、初のヒットを得た作詞家・宮川哲夫。彼の人生は「詩」とともにありました。1C代で詩と出会い、12歳で母親が死去。悲しみに暮れる中、宮川は次第に文学の世界に没頭していきました。
 師範学校を卒業し、地元・大島で教師生活をはじめますが、戦前から戦後へと大きく価値観が変容するこの時代、揺れ動く宮川の心を支えていたのは詩作への情熱でした。
 そして昭和25年、詩作で生きていくことを目指し上京。彼が選んだのはレコード作詞家としての道でした。都市の片隅で生きる人々の悲哀や貧しさをうたった彼の詞は、鶴田浩二や宮城まり子の歌声にのり大ヒット。宮川は専属作詞家となり、夢を叶えましたが、その後の華々しい活躍の影には、ヒットメーカーとしての重圧と苦悩がありました。
 �牴里論い砲弔貔い浪里砲弔讚瓠殍榲犬蓮∋�代を色濃く映し出す昭和歌謡の中で、宮川が遺した数々の作品を取り上げる初の展覧会です。「詩」とともに生き、最後まで愚直に作詞を続けた宮川が詞に込めた想いを、ぜひご覧下さい】
 今回の展示は「初の展覧会」とあるように、ビクターをはじめ現役の歌手、フランク永井や宮川の遺族、そして宮城県松山のフランク永井展示室、吉田正音楽記念館など多くの関係者、団体が全面的な協力のもとに開催されている。
 写真や、当時の手書きの原稿や、レコード、ジャケット、ポスターがふんだんに展示されているので宮川の奥深さを堪能できる。
 また、関連イベントがいくつも開かれるので見逃せない。宮川三女浅見洋子さんによる「父・宮川哲夫を語る」は申し込んでみたのだが、残念ながらすでに満席で聴けないのが心残りだ。この催しについてはぜひとも何らかの形で残し、公表されてくださることを期待するところである。

 宮川はフランク永井のリサイタルのときに、下記のようなコメントを書いているので紹介したい。
 【「場末のペット吹き」に始まって、「夜霧の第二国道」「羽田発7時50分」[夜霧に消えたチャコ」と、どちらかといえば、暗く重たい私の詞の欠点を、いつもカバーして唄ってくれたのが、フランクさんの甘くソフトな低音でした。
 人気絶頂にいるときも、大歌手として大成された現在も、いつも変わらずニコニコと、その顔から明るい笑いを消さないフランクさんを見るたびに、私は「偉いナ」と思い「立派だナ」と思います。
 ここまで書いてきて、ふと気が付きました。デビュー以来何年になるでしょう? 「誰からも愛される」フランクさんが「誰からも尊敬される」フランクさんにかわっていたのです。「君恋し」「霧子のタンゴ」、その他最近の数々のヒットソングの中から、私の名前は消えてしまいました。明日でもいい、明後日でもいい、せめてひとつでもいい、フランクさんに心から喜んで唄っていただけるものを作詞したい。そうして多年のご交誼に酬いたい。今日、そんな気持ちがしきりです】
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