前回にフランク永井の全集ものを紹介しました。レコード時代に発売された「大全集」(十巻全集)は曲もそうだが、関係者からのフランク永井評が満載されています。そのなかから、文書あるいは第十巻の音声からいくつか紹介して見たいと思います。基本的にこのままでは埋もれてしまう情報ですが、フランク永井への関心を維持し、継承していく活動の一環として、およそ50年前のものですが、ここに記していきたいと思います。
フランク永井の二十年(小倉友昭)
●激動の昭和復興期に出るべくして登場したフランク永井
歌手フランク永井の登場は衝撃的だった。在来の日本の歌手にない声の幅、柔らかさ、そして、天性のものともいえるフレージングの巧みきなど、どれをとってみても、その出現は、新鮮な驚きだった。
昭和三十年十二月。デビュー盤は、スタンダード・ナンバーの「恋人よわれに帰れ」だった。
この年、テレビ受信契約数が、始めて五万台を突破し、洗濯機、ミキサー、電気コタツなど家庭電化時代が始まっている。ついでにいえば、トランジスターラジオの発売もこの年だし、ファッションの流行も、Aライン、Yラインなどアルファベット時代に入っている。
こう書いてきたのは、ほかでもない、この昭和三十年という年が、後の二十年の方向を決定づけた極めて重要な年だった、ということを、あらためて考えてみたかったからだ。
テレビは、この年を契機に完全に一時代を作っていく。一年後の昭和三十二年には契約数三十万台突破となり、上半期からの五カ月間に前年度契約数五万台の倍に当る十万台に達するほどの急激な伸びを記録している。
また家電化時代突入は、団地の増加と相まって、現在の生活様式の基礎的なパターンを形作っている。流行も、この年度から、ジャーナリズムの上で大きく取り上げられるようになった。さらに、つけ加えるなら、ノイローゼといういまでも何らかの形でしばしば使われる言葉が、始めて大きくクローズアップされたのも、昭和三十年だった。
いうならば、以降、昭和五十年の現在に至る出発点が、この年度に求められるというわけである。
そして、この年に、フランク永井がデビューした、ということは、非常に暗示的、かつ象徴的であるの
この年、新人歌手として、数多くの名がデビューしている。フランク永井を出したビクターでも、由利夏江、中原葉子、菅原一郎ら十数名を出し、他のレコード会社も、斉藤京子、伊東満、花村菊江、浅草ゆめ子、関真紀子、鶴美幸ら、合わせると三十名にのぼる歌手を期待をこめて出している。いまの、歌手量産の芽が、早くもこの三十年度にあったのである。時代の流れと同様に、流れも、やはり、以降二十年の源流を形作ったわけだった。
だが、これらの数多くの名は、二十年経ったいま、フランク永井という名だけを残すだけとなっている、この間の歳月が、いかに長いものであり、いかに変動に充ちたものであったかを、この事実は教えてくれる。現在の日本の基調が出来上った年代は、一方では以降の激しい成長を告げる年代でもあったのである。
日本の、これは、高度成長に入る契機であった。
●抜きんでていたフランク永井の声質と歌唱
三十年十二月にデビューしたフランク永井は、翌三十一年五月までに二枚のレコードを出している。一曲は「バラの刺青」、他の一曲は「16トン」。前者は外国映画主題曲で、メロディアスな曲、後者は寺岡真三編曲でアメリカン・ポップスの流れをひいている。ジャズ歌手として、進駐軍(現駐留軍)のキャンプをまわって、フランク・シナトラ風の歌を歌っていた彼の、いわば生地をそのまま出したものだった。ノビやかな歌い方と抑制のとれた感情表出が巧みで、それだけに、それまでの日本の歌手になかった新鮮な感動を与えたものだった。
多くの日本の歌手、特に、彼とジャンルを同じくするアメリカン・ポップス系、ジャズ系の人たちが、コピー・シンガーとして、少さく固まってしまいつつあるなかで、彼のコピーに捉われない闊達な唱法は、本格的な歌手への成長を期待させた。それも、結局は、他の歌手が持ち得ない天性の声質の良さが、原因となっていたのだが、とに角、たっぷりしたその声を、余裕を持って使いながら歌い上げる彼の歌には、本来、そうでなければならない筈である声を楽器として、使いこなせる歌手が、日本にも登場してきた、という新しい時代の到来を感じさせたものだった。
仮定としての論議は、余り意味のないものだが、彼の場合は、それを承知であえていうならは、恐らく、彼は、そのまま、ジャズ乃至はアメリカン・ポップスを歌い続けたとしでも、その分野での代表的な存在となり得たに違いない。それほど、彼の資質は、同時代の歌手の中で抜きん出ていた。しかも、この系譜の歌手の多くが、限られた特殊なファンに対してのみ働きかけを行っていたのに対し田正成のて、彼は、限られたファンだけでない、いわゆる一般のファンに対して強い影響力を持ち得る質の歌手だった。そして、これが、やがて、流行歌手としての開花へとつながる。
この契機となったのが、三十一年十月発売の「場末のペット吹き」(宮川哲夫作詞、吉田正作曲)だった。これで、彼は、外来曲のみでなく、日本の伝統的な現行歌への適応性の確かさを見事に示した。しかも、型にはまった唱法から脱け出し、アメリカン・ポップス風のフィーリングを活かして、新しいタイプの流行歌への途を拓いた。特に、印象づけたのは、それまでの歌手にない声の豊かな響きだった。これは、彼の声の質を見抜いた作曲家吉田正氏の慧眼に負う所も大きいが、これに応えた彼の物怖じしない唱法が、際立っていた。この成功は、翌三十二年三月発売の「東京午前三時」(佐伯孝夫作詞、吉田正作曲)へとひろがっていく。
この曲は、何より歌をも含めたサウンド構成の巧みさで、新しい風俗歌謡の先鞭をつけたものとなった。当時としては、まだほとんどの人が手がけていなかったエレクトーンを、吉田氏は見事に使いこなして、在来の曲調とは一変した仕上げとした。このエレクトーンの音質は、柔らかい彼の声質と合致した。刺激的な音を使いながら、刺激的に感じさせないその曲作りの巧みさが、彼の声質をより印象づけた。電気的な処理音が、流行歌に登場したという点でも、この歌は、忘れられないものだろう。これが、いわゆる「低音ブーム」の発端となった歌だった。彼の、幅のある、のぴやかな声は、当時の多くの歌が、ピッチの高い音質で聴かせる歌によって占められていただけにより際立って、新しさを感じさせたものだった。以降、この年には「夜霧の第二国道」(宮川哲夫作詞、吉田正作曲)を経て、「有楽町で逢いましょう」(佐伯孝夫作詞、吉田正作曲)へと発展していく。
この年、昭和三十二年は、以降の十五年間の主流となった消費文化時代の開幕期である。十月に五千円札が登場し、十二月には百円硬貨が発行されている。「デラックス」という言葉が濫用され始めたのもこの年だし、ゴルフ・ブームの緒が、川越市で行なわれた第五回カナダ杯国際大会で、個人・中村寅吉、団体・日本の初優勝で開けられた。レコードも、SPが1067万4459枚、45回転EPが344万2169枚、LPが151万8842枚と、EP、LPの飛躍的な増加が記録されている。そして、忘れてならないのは、オーディオでハイ・ファイ・ブームが起こり、高忠実度再生音に関心が向けられたことだ。しかも、この年度にはステレオ・テーブも日本で始めて発売されているし、FM放送の必要性も盛んに論議され始めていた。この機運は、翌三十三年八月になって、日本ビクターが、日本で認めて国産のステレオ・レコードを発売するという新しい音響時代へと拡がっていくわけだが。とに角、大量消費時代へとの突入が図られたのである。
●フランク永井の力量はリサイタルで発揮した
実は、「有楽町で逢いましょう」の大ヒットは、消費時代という背景を抜きにしては考えられない。十一月に発売したレコードが一カ月後の年末には、この歌一色に塗り潰されたほどの拡散となったのは、大量消費時代の顕著な表われである。歌の背景となった関西のデパートの東京進出も、この時代だから成し得たことだし、拡散、伝播速度の速さも、この傾向があって成り立ったものだった。と同時に、音の面から考えると、ハイ・ファイへの関心、ステレオの登場といった新しい音響への興味が、フランク永井の歌を浸透させた、といってもいい。新しい音響への大衆。の関心、興味は、必然的に録音、再生の技術革新を促す。
「東京午前三時」で吉田正氏が試みた流行歌のサウンド設計は、録音、再生の技術の進歩なしでは成立しない。フランク永井の声が、快い響きとなって大衆に伝えられたのも、録音、再生の技術が、この時代に著しい進歩を遂げたからである。彼の歪みのない柔らかい声は、録音技術の良否によって大きな影響を被らざるを得ない。声を決め手としない歌手だったら、さほど、こういった面での影響を考えなくてもいい。声の質がせん細であればあるほど、録音、再生の優劣は大きな問題となる。逆からみると、彼は、音に敏感になり始めた時代の要請によって出て来た歌手といってもいい。
いつの時代でも、時代の要請によって出てくる個性はあるものである。時代が必要としない個性は、かりに、ある一時期、何らかのきっかけで出ることは可能でも、所詮は消えざるを得ない運命を持つことは、幾多の例が証明している。
フランク永井は、すべての面で、出るべくして出て来た個性だった、ということである。だからこそ、多くの歌手が、雲散霧消してしまったなかで、二十年間第一線で活躍し得たわけである。
だが、もし彼が、デビュー時代と同じ声を持ち続けたらどうだったろうと、ここで考えてみよう。
まず思い浮かぶのは、彼がかって私淑したフランク・シナトラの在りようである。シナトラは、ラジオの普及と共に出てきた。マイクの性能の向上が、シナトラの美声を際立たせた。そして、それが、シナトラの落し穴となった。単なる美声歌手として飽きられる時代を迎える。加えて、過飲から唯一の財産であった喉を潰す悲劇に陥る。これを救ったのが俳優への転向であり、違ったタイプの歌手への転進である。美声歌手でしかなかったシナトラは、深い味わいを表現する歌手へとなった。
もちろん、フランク永井が、悲劇的な経路を辿ったというのではない。むしろ、彼の場合は、ほとんど失意らしい失意に遭遇しなかった歌手である。しかし、それでもこの二十年間には、歌手病ともいえるポリープに悩まされたこともあった。この職業病は彼の唱法に、シナトラと同様な味わい深い陰影を与える結果となった。声に特質を持つ歌手が、唱法でも、他の歌手の追随を許さない独自のものを持ち得るようになったのである。多くの歌手が、この職業病を前に、何ら成すすべもなく、ただ徒らに、在来の唱法に固執しているのを見るにつけ、フランク永井のこの成長は、特筆すべきものだろう。これが、奨励賞(四〇年)優秀賞(四五年)の二度にわたる芸術祭での受賞、そして、流行歌手としてはじめての芸術選奨文部大臣賞受賞という結果になっている。しかも、この三賞は、いずれも、リサイタルの成果としてのもの、という事に、彼の本質が示されている。
多くの歌手は、本来の意味でのリサイタルは持ち得ない。鑑賞組織用のステージをリサイタルと名付けるか、或いは、興行としてのステージを便宜上リサイタルと呼ぶ程度のものが通例である。リサイタルと呼び得る内容を作り得ない歌手が多いのだから、これは致し方ないかもしれないが、そんな中でフランク永井のリサイタルのステージは、終始緊迫した空気が張りつめて、隙のない舞台構成になっている。
これは、彼の師である吉田正氏の姿勢を継承したものだが、彼に、継承し得る精神内容があったから出来得たものだ。
彼の舞台に一貫して流れるものは、歌に対しての並々ならぬ執着である。昭和三十年にデビューしてからの、これが、彼を支えてきたものだが、これも吉田正氏と驚くほど似ている。歌以外に、自分を賭けるものがない、としたこれは男の生き方である。
細かくいえば、一人で舞台を保たせることが出来るレパートリーの豊かさ、或いは、落語に凝った結果として作られた独得の話法の巧みさなど数え上げれば、きりがないが、この底流になっているのが、歌うことへの執念である。これが、聴衆に伝わって、熱っぽい感動を産み出すことになる。
舞台での彼は、頭の先から靴の底に至るまで寸分の隙もない。特に、靴の履き方の美しきでは、日本では類を見ない。
これは、南部圭之助氏も指摘していたが、ステージに上がる者のもっとも心がけねばならないことの一つといっていい。だが、日本の舞台人の多くはほとんどそこにまで神経を行き届かせることは出来ないのだろう。
外来アーチストは、サミー・デビス・ジュニア、フランク・シナトラなど、何れも、靴の美しきで舞台を引き締めていた。これと、全く同じ美しきを彼は、舞台で作り上げた。日本の歌手では、誰一人出来得ないこの隙の無さは、彼が、いかに一回一回のステージに全てを投入しているかをわからせるものだろう。
本当の意味でのエンタテナーといえる数少ない歌手がフランク永井なのである。
●恩師吉田正はフランク永井に、持てるすべてを与えた
この二十年、日本は大きく変わった。昭和三十年に6,739億円だった日銀券発行残高が、昭和四十九年末には、11兆6,678億円となるほど経済は膨張し、140円だった理髪料が1,170円に上がるほどインフレは昂進した。直接戦争に参加しないで、これほど変った時代はなかった。芸能界でも映画が全盛から斜陽へと傾斜し、かわってテレビが台頭した。音楽も、その変化を書き切れないほどの変りようである。
フランク永井は、この激動の二十年を、しかも第一線で生き抜いてきた。歌の種顆も、他の歌手には真似の出来ない豊穣さを持っている。リサイタルに吉田正氏が書き下した歌謡組曲「慕情」を頂点に、戦前の流歌、そして、ポピュラー・ソングに至るまで、全てが、彼の骨肉となっている。
「私の持っている全てのものをフランク永井には与えた」吉田正氏は、彼についてこう語っている。類いまれな個性的な作家と、これも類いまれな個性的な歌手とのこの出会いは、昭和三十年から二十年間の歌謡界の流れを作った。
そして、この二十年は、いまの日本の流れを決めた重要な年代だったのである。
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