なんとも立派な歌手人生であった。こころからのご冥福を祈りたい。
フランク永井より1歳年下だが1952(S27)年、つまりフランク永井より3年前にキングから「ドミノ」でデビューした。1957(S32)年にフランク永井が「有楽町で逢いましょう」を放ち、翌年ペギー葉山は「南国土佐を後にして」でいっきに人気歌手にのぼった。
フランク永井もペギー葉山もいわゆる米軍キャンプでジャズを歌っている。ペギー葉山は学校でクラシックを本格的に学んだのだが、ジャズに転向。その後「南国土佐を後にして」から流行歌へ幅をひろげた。フランク永井も恩師吉田正の指導に会う前までは、同時期にジャズに入れ込んでいた。
フランク永井は恩師に流行歌への転向をすすめられたが、なかなか踏み切れずにイヤイヤといえば言い過ぎかもしれないが、1956(S31)年「場末のペット吹き」を吹き込む。翌年の春には「東京午前三時」を出す。いい歌でいまではフランク永井の代表的な曲になっているが、流行歌への転向に納得していたわけではなかった。実際にそれほど売れていなかった。
それがその年の末に出した大丸デパートのキャンペーンソング「有楽町で逢いましょう」が大ヒットすることになって、ようやく流行歌に専念する決意ができたといわれている。
面白いことに、いまでは皆知っていることだが、ペギー葉山もようやく自分はジャズ歌手としての自信をかためつつあるときに、NHK高知支局のテレビ開局記念の公開番組に出演するときに「現地では長く歌い継がれている歌だ。これを歌ってくれないか」と言われたとき、いまどき(でもないか)の表現で「マジ?」と聞き返し、ディレクタの依頼を真剣に嫌がったという。
それで仕方なしにイヤイヤ集まった多くの観客の前で披露すると、想像を超えた大反響だったといわれている。どこの公演にいっても「南国土佐…」を歌うことを求められる現実に接して、自分の大事な曲として受け入れていったと。
ペギー葉山の歌唱力は亡くなるまで衰えることはなかったのだが、夫の闘病を支える期間などそうとうに苦労をしてきた。彼女の幅広いジャンルをこなす歌唱は、どこでもだれにでも受け入れられ、活躍の場において他を寄せ付けないほどだ。
テレビでも、ラジオでも、子供向けでも大人向けでも記録にあまる偉業を残している。
「学生時代」はペギー葉山の代表曲の一つ。同じ青山学院を出た平岡精二が、ペギーに思いを込め、そこを舞台とした「学生時代」を作詞・作曲・編曲で送った。そして「爪」。旗照夫には「あいつ」を歌わした。このあたりのことは何ど聴いても胸が動く。すばらしい曲だ。
「爪」「あいつ」については、実はフランク永井がカバーしている。これがいい。「爪」も「あいつ」のいい曲なので多くの人がカバーしているが、聴いていてフランク永井のものは絶品だと思う。そんなことを思いながらペギー葉山の活躍に思いを馳せた。きっとあちらでこうした方々が楽しく語り合っているのではないだろうか。
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