11月21日(金)朝例によって新聞のテレビ欄をチェクしていたら、フランク永井の文字を発見し、これは見逃してはならないと決意。念のため録画予約を入れました。BSテレ東の徳光番組です。
テレビ欄にもあるように山手線沿線の駅名で連想する曲を紹介するというものでした。環状運転、つまり現在の山手線が開通して100年だと言います。これを記念して、というのはややこじつけがましいのですが、それはさておき、小林旭が歌う「恋の山手線」がスタートとしました。
山手線の駅名にちなむ、というより駅名ご当地ソングといったところです。人気で一番といえば井沢八郎の「あゝ上野駅」は堅いところでしょう。私も山形の田舎から当時に上京しました。この歌は忘れようと手忘れられず、いまでも口づさめます。
そして神田といえばこれは連想的に思い出すのは美空ひばりの「お祭りマンボ」です。美空ひばりの歌で私が一番好きなのは「車屋さん」だが、二番目はこの歌です。
この日の番組では「東京」は何故か話題から完全に避けられました。これに関連する曲と言えば、それだけで2時間はかかるかも知れないという超話題駅だからでしょう。東京の次は有楽町で、これは何といってもフランク永井の「有楽町で逢いましょう」がダントツだろう。
戦後の焼け野原からの復活。闇市場のメッカであった有楽町は、とても、誰でもとりあげるような町ではなかった時代ですが、首都東京のど真ん中の一角には違いない。そこに大阪から百貨店「大丸」が建設され、オープンするときに、ビクターの作詞家である佐伯孝夫が目を付けた。オープンの大キャンペーンに乗ろうと。
テレビ放送も開始されたばかりの時期で、現在の日テレが番組を作ったのは、同じく有楽町の駅の隣に読売開館を所有していたからでもある。週刊大衆紙「平凡」は小説「有楽町で逢いましょう」を連載開始し、大映は同名の映画製作を開始します。
ビクターは流行歌「有楽町で逢いましょう」を用意します。シベリア抑留から帰国し「異国の丘」作曲家としてビクター専属になり、佐伯とコンビを開始した期待の作曲家吉田正が作曲します。歌い手はほとんど無名のフランク永井。
恩師の吉田正は労働者が昼は汗水たらして働き夕刻にささやかな憩いを迎えるときに、流れてくる曲が洋楽であることに思いを抱いていました。そこには本来日本の曲が流れるべきではと。それには、大都会の夜の憩いにあう曲、ふさわしい歌声、多くの人に受け入れられるメロディでなければならないと思っていた。そのイメージに応えられるのはフランク永井の声だと考えていました。
多くの内外の関係者、特にスポンサーである大丸の声を吉田正は押し切ってフランク永井に実際に唄わせて納得させます。発売されたら、吉田正と佐伯孝夫の目論見は大当りしました。
吉田正は「この歌のヒットで、私は職業を聴かれたときに作曲家だとはじめて胸張れるようになった」と語っています。フランク永井は吉田メロディーを表現する理想の歌手として、吉田正は彼の成長にすべてを打ち込みました。
こうして「有楽町で逢いましょう」は生まれ、フランク永井をトップ歌手に押し上げ、みずからも昭和を背負う大作曲家になりました。
有楽町はこの歌のおかげで、若者のあこがれの町にイメージが大変わりしました。
この日の番組では、他にロス・インデオス&シルビア「それぞれの原宿」、青江三奈「池袋の夜」、八代亜紀「なみだ恋」、藤圭子「新宿の女」が披露されました。
それらの曲はいずれも、フランク永井が大活躍していた時期の歌です。一曲ごとそれぞれに深い味があり、当時を蘇らせてくれます。フランク永井の映像は流行歌のテレ東が誇る日本歌手協会による1984年「夏祭りにっぽんの歌」からのものです。例によってですが、歌は一番だけという短いもので残念です。ちゃんと三番まで歌う映像は何故かお持ちでないようです。お酒をちびり、ちびり、いい一時でした。
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