29年目のきょうはこれまでとまた違った重い空気のなか。もちろんそれは1年の計とするには辛すぎる年明け早々の地震。寒風吹きすさぶなか避難所で厳しい日々を送る被災者のみなさんを見ると、どうしても29年前の同じような光景がよみがえる。もちろんこちらは豪雪もなく、かの地にくらべれば寒さの度合いも違うけど。
性懲りもなくことしもまた2007年の日記を貼り付けます。考えてみればこのときすでにあの日から12年が経過、内容に記憶違いがあるかも。そう思ったのは、先日テレビで震災に遭ったひとの「何年かごとに記憶がブレてどれが真実かわからなくなる。もちろん思い出したくないという意識もそこに混ざる」みたいな言葉を聞いたので。
2007年1月17日のmixi日記
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12年も経つとだんだん風化していくのがわかりますね。ニュースの扱いも、関西ローカルでさえ以前ほどではないし。戦争を知らない我々は悲しみの共通体験みたいなものが少ないから、語り継いでいく必要があると思います。
その日前後の事をあえて感情的ではなくドライに書きます。もっと悲惨な目に遭っているかたがたくさんいるのは百も承知です。不謹慎かもしれません。でも事実を歪めたくないからそのまま書きます。
○三連休明けの朝だったので、その日はあまり眠れず、その瞬間も半分起きていた。マンションの12階に住んでいたので揺れは相当だったが“止まらぬ揺れはない”と妙に冷静でよつんばいのままじっとしていた。
○前夜、友人たちが遊びに来てすき焼きをした。食器類をしっかり乾かすためにあえて食器棚の手前に置いたので、食器類は全滅した。
○鉄道が動いてないと聞いて、ほとんど寝れなかった私は“これでもうしばらく寝れる”と思った。
○当日夕刻のなんばWALK、テレビの地震報道をサカナに酒を飲もうとするおっさんたちで居酒屋は満杯だった。職場にいても仕事にならず、一杯ということだろう。
○その日の大阪新聞(夕刊紙)は4ページだけ。思いっきり引き伸ばした写真数点だけで記事はなかった。
○元同僚S君が犠牲となる。彼は約1年前、父親の会社を継ぐために退社し、修業の毎日だった。自宅の芦屋旧家が全壊、S君と父親(つまり社長)が犠牲となり、母親と妹は助かった。
彼の安否を彼の会社に確認し、その悲劇を聞いて、みんなに伝えたのが私だった。こういう時、ドラマなどでは受話器を持ったまま目をつぶってうなだれて首を左右に振るのがおきまりのパターンだが、そのとき私がどんな行動をとったか一切覚えていない。S君が退社前、若手だけでスキーに行った時の写真があり、日付をみるとちょうど1年前の1月17日だった!
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毎回熱く温かいコメントを多くいただきありがたく思っております。ことしもまた何か残すことがあれば、このあとに。以前に一度書かれた内容でもぜんぜん構いませんのでよろしくお願いします。ことしはたまたま昨夜早く寝て早く起きてしまったので、この時刻に合わせて日記をアップ、そして黙祷。
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