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2024年01月08日16:34

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【資料復刻】フランク永井、石原裕次郎、長嶋茂雄対談

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   【第12回フランク永井歌コンクール告知】
 2024(R6)年3月16日(土)17日(日) 大崎市松山体育館
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   フランク永井 歌コンクール official サイト
     https://f-nagai.m-machikyo.com/
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 謹賀新年 今年は年頭から能登地震、羽田での衝突事故等が起こり、犠牲者も出て大変な年明けでした。こころからお悔やみ申し上げます。
 表題の「フランク永井、石原裕次郎、長嶋茂雄対談」は、1958(S33)年4月号の「明星」の2色刷り特集「男性No1」の記事です。ブログでは存在の紹介は何度かしてきました。フランク永井が「有楽町で逢いましょう」を1957年に発売して、全国区の人気スターにのし上がりました。その当時、映画界では石原裕次郎が脚光を浴びて銀幕を飾っています。同時に野球界では長嶋茂雄が登場して、国中の野球ファンが驚愕しました。昭和のこの時期、ほぼ同時に偉大な功績を遺すスターが登場し、必然的に注目が集まります。
 当時のスターたちを国民が知るのは、「平凡」とか「明星」の月刊雑誌の写真を通じてでした。「平凡」は「有楽町で逢いましょう」を世に知らしめた映画、レコード、連載小説で組んだ相手で「明星」とは激しい競争をしていました。その「明星」が、それぞれ多忙でつかまらない中、ようやく実現したのが、この企画でした。
 存在はわかったので、古書店やヤフオクなどで現物を求めようとしたが、何時まで経っても出てくる様子がないので、内容を紹介して欲しいというファン仲間からの要請がありました。
 確かに古い月刊誌なので入手は困難だと思います。そこでこの度、新年を迎えたときなので、あくまでフランク永井に関する埋もれた資料の一環として、一部分をご紹介します。全体は12ページに及びます。前半は別の機会にすることにして「東京新名所をつくった男 ビクターレコード、フランク永井」の部分の文字起こしをしてみます。

【東京新名所をつくった男〜ビクター・レコード、フランク永井
 とにかく恐ろしいほどです。去年の暮れ、フランク永井さんの「有楽町で逢いましょう」のレコードが発売されるや、またたくまに、ほんとうにアッというまに大流行してしまったのです。ガソリンタンクに火がついたようなバカあたりは春日八郎さんの「お富さん」以来だろうと歌謡界では呆れています。
 そこでのこ爆発的な魅力をすこしばかり眺めてみましょう。
◆レコード店で
 中年の女客「あのー、フランクンさんのレコードありません?」「ハァ、ハァ、レコードは何にしましょうか。「東京午前三時」「夜霧のf第二国道」、それとも…」
 女客「フランクさんのものだったら何でもいいの、ひととおりもらってくいくわネ」
 その女客はゴッソリ彼氏のレコードを抱えこんでご帰還です。
◆ビクター芸能社で
 電話がけたたましく鳴って
 「ハイハイ、こちらビクター芸能社。エッ、フランクの実演申込み? 実はフランクは四月一杯実演の予定が決まっちゃいましてネ…。ハァ、すみません」
 続いてまた電話
 「N放送さん? アノネッ、そんなこと言ったってT放送が先約なんですよ。録音は来週にしてくださいヨー」ガチャン。
◆S劇場のフランクの楽屋
 どっかとあぐらをかいて昼飯のトンカツをパクついているフランクさん。
 食事中も新聞のインタビュー、雑誌の撮影、おちおち飯ものどをとおらないようです。
 戸口にむらがるファンを横目でみながら、フランクさん
 「歌手なんて歌さえ歌っていりゃいいとおもっていたのに、こんなに仕事がおおいとは思いませんでした」とフーっとタメイキ。
 ざっとこんな調子です。とにかく最近のフランクさんは映画、放送、実演と身体がいくつあっても足りない売れっ子ぶりです。特に例の「有楽町で逢いましょう」なんかは昨年発売以来、わずか一カ月で十五万枚も売りつくして、全国の若い男女に一躍東京新名所「有楽町」の名前をクローズアップさせてしまいました。
 そういえばフランクさんの歌には「東京午前三時」「羽田発7時50分」「夜霧の第二国道」と東京の特定の場所を名指して歌っているものが多く、それがいずれもヒットして、地方のお客の憧憬(あこがれ)をさそっているのですから、観光協会の表彰ものというべきです。
 それはともかく、この爆弾男、フランク永井とはいったいどんな男なのでしょうか、その人気の秘密を少しばかり覗いてみましょう。
◆エピソード1
 フランクさんがビクターから入社勧誘があったとき、彼は進駐軍のキャンプで月百ドルの高給取りでした。やめたいといったらマネージャーは二百ドルにするという。日本のお金で7万2千円です。だが結局ビクターの熱意に打たれて入社決意。準専属歌手で月給は1万円にもならない少額でした。
 無欲の話をもう一つ。同じ進駐軍に勤務中、彼の人気は米兵の夫人連中に大変なもので、とうとう彼女たちは自動車を一台彼に買ってくれることになった。ステージの総見ぐらいはいいが、自動車をくれるとはネェーというわけで、さすがの彼も呆れた表情。結局もらう理由がないからとアッサリ辞退したとのことです。
◆エピソード2
 彼を売り出しのは、何と言っても作曲家の吉田正氏なので、彼は東京にいるときは必ず、毎日吉田氏宅に連絡を取っています。撮影で遅くなっても、バーの付き合いで夜中になっても、姿を出せないときは電話でその日の状況を報告しました。恩師への感謝の気持ちを持っている、そんな男です。
◆エピソード3
 フランクさんはなかなか度胸がいい。チンピラヤクザなど問題にしない。去年の暮れ、チンピラが彼の舞台出演中に楽屋にやってきました。最初は適当に応対していたら、ある日アパートにまでやってきたのです。アパートのおばさんが適当に断ると、すごみ出し、仕方なく彼を起こしにきた。みると例のチンピラです。
 そこでフランクさんは怒った。「なんだと思っているんだ、このヤロウ、見ろ、おばさん震えているじゃないか。付き合いだと思って、丁寧にしてやれば、何だこのザマは…」一喝一声。その勢いにのまれて、チンピラはすっかり恐れ入ってしまった。彼はそういう度胸も持っている男です。
 そのフランクさんは昭和7年3月、宮城県志田郡松山町の生まれ。本名永井清人。父は材木商のかたわら町で一軒だけの映画館を経営していました。その父も彼が六つの時亡くなり、以来、牛乳や新聞の配達をしながら生活してきました。
 その後東京の進駐軍勤務の兄を頼って上京。そこではいつも、ニコニコしてずんぐりの彼を米兵たちは「フランク」とニックネームをつけて可愛がってくれました。ところが二年後、彼は挫骨神経痛で病魔に倒れてしまったのです。休養はした「あの一年間がなかったら、僕は歌手になれなかったでしょう」。彼は感慨深げに語ります。
 事実その期間中、文化放送の「素人のど自慢」でにでて、みごと合格し、今日の歌手の方向を決定したのです。まもなく本格的な歌の勉強をはじめた彼は、進駐軍のキャンプの歌手になります。「素人のど自慢全国大会」に出場して一位入賞。それがきっかけでビクター入社となったのでした。
 デビュー盤は「恋人よわれに帰れ」昭和31年9月のことでした。ビクター入社後は皆さんご存知の通り。ジャズから歌謡曲へ転向し、それをすすめた作曲家吉田正先生はこう語ります。
「彼の声はあたたかく、何とも言えない性的魅力がある。それに名前のとおりの明るい性格だ。今年最大のホープ歌手になるだろう」
 ともあれレディキラー、フランク永井の今後が楽しみです。
◆フランク永井さんと一問一答
−尊敬する歌手は?
「日本人ならナンシー梅木、春日八郎さん。外国人なら、なんといってもクロスビーにフランク・シナトラ」
−歌手でなかったら、どんな職業をえらびましたか?
「とにかく何でもやったでしょうネ。やれる自信があるもの」
−好きな植物は?
「生野菜、果物、それに寿司かな」
−得意のスポーツをどうぞ
「野球、テニス、卓球」】

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