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2019年07月27日11:51

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追悼!「東京ダーク・ムーン」作曲もした高島忠夫

 6月26日高島忠夫が天に召された。88歳であった。こころから追悼の意を表する。
 高島忠夫といえば、フランク永井ファンにとっては2つのことが思い出される。
 一つは、フランク永井がビクターに入って、ジャズ志向から流行歌への転向をした最初の曲「場末のペット吹き」(1956(S31)年10月)のB面で「波止場の人気者」を歌っていること。
 高島忠夫は東宝の映画スターで、ぼんぼんのようでも歌える俳優ということで人気を博していた人。この人がフランク永井の新たなデビューの後押しをしたのである。
 二つ目は、フランク永井が「有楽町で逢いましょう」で人気がうなぎ上りに上がる中「東京ダーク・ムーン」の作曲をしたことだ。作詞は不動の佐伯孝夫で編曲はこれも不動の寺岡真三。1958(S33)年4月。
 当時ラジオで流れる歌声では「?とうきょう・だくむー...」と耳にはいり、だくむって何だ、濁夢か、と話していたほど。よく流れていた。
 こうしたことから、フランク永井にとっても高島は忘れられない人だったのではないだろうか。
 高島は映画・テレビ・舞台で大活躍する。宝塚女優の寿美花代と結婚しおしどり夫婦としても有名になる。今ご活躍の高島政宏、政伸を育てた。だが、忘れられない悪夢もあった。
 「長男殺害事件」だ。また誰しもが老いる。病気にもなる。闘病と介護という現実が及んでくる。はなやかな世界を横臥してきても、避けえない現実世界に突き当たる。
 多くの有名人はこの現実の報道がイメージを傷つけるとして控える傾向があるが、高島についてはある程度皆に知れたほうであろう。誰しもが立ち向かわざるを得ないということを、ある程度あからさまにするのは勇気もいることだが、それを覆い隠さずに生きる勇気もその人のありようだろう。
 そんなこんなと高島を偲んでいたら、何度かこのブログで紹介したことがある武田鉄矢の「昭和は輝いていた」で「大人の社交場に響いた歌声〜クラブシンガー」(7/19)が流れた。まさにフランク永井、高島忠夫が活躍していた時代の話だ。
 日本を占領していたGHQ。いたるところに存在した米軍基地。そのキャンプには遠くから遠征してきた米兵をいやす社交場があった。朝霞はキャンプ・ドレイクと呼ばれ、フランク永井は上級幹部用の場の専任歌手として歌っていた時期もあった。
 雪村いづみ、江利チエミ、ペギー葉山、松尾和子などもキャンプ回りをした。ところが朝鮮戦争が一段落してGHQの役割が終わる。米軍も一部を残して撤収する。すると、フランク永井らにとっては新たな職場が必要になる。そこで勃興するのがキャバレーやナイトクラブ。
 番組はそこで活躍する歌手に的を当てて紹介している。ナイトクラブは比較的上流な(つまり、金持ちたち)の遊び場。米軍キャンプを経験した歌手たちは多数に及ぶが、実力が認められなければ定着できない。ナイトクラブ歌手には、その実力者がすわった。大物芸能人、高級官僚、政治家、財界の有名人で夜な夜な賑わう。番組のゲストは八代亜紀と中条きよしだったが、ナイトクラブ歌手はレコード歌手のおよそ十倍にもおよぶ収入が得られてという。
 番組の最初のほうでフランク永井が登場する。「恋人よわれに帰れ」(デビュー曲1955(S30)年)を歌う。当然この歌唱の映像は残されていない。だが番組では、スポニチクリエイツが残した若いフランク永井の舞台での歌唱シーンを用意して、歌にかぶせる。それがなかなか自然でよかった。
 フランク永井とゴールデン・デュエットを組んだ松尾和子が「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」を歌う。ムーディーな大人の歌声で聴く人を魅了するというと青江三奈(横浜「ナイト・アンド・デイ」)もいた。彼女は「恍惚のブルース」を聴かせた。
 赤坂の高級ナイトクラブで有名だったキャバレーミカド。その後ビジネス街のビルに。私的なことながら、ここに仕事で数年過ごしたのを思い出される。酔いも進んだのでこれまで。
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