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2021年02月15日23:04

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週プロ流智美あの日あの時予想2020年総括(40)

第156戦 10月14日発売号●【予想】大木金太郎戦を前にした馬場がオックス・ベーカーにストレート勝ちでPWFヘビー級王座を防衛(75年全日本プロレス松山・愛媛県民館)【正解】東スポは何故「世界最強タッグ」の看板に拘ったのか?世界最強タッグ戦、猪木&坂口征二組vsルー・テーズ&カール・ゴッチ組(73年新日本プロレス蔵前国技館)【参考】2015年10月14日発売号は世界最強タッグ戦(正解に同じ)

本連載(38)では74年10月10日、新日本プロレス蔵前国技館で行われた猪木vs大木金太郎のNWF世界ヘビー級選手権試合の調印式を採り上げていますが、大木は翌75年の第2回ワールド・リーグ戦に参戦した後、矛先を全日本プロレスに向けていきました。

9月22日、大韓プロレス協会の権五台会長の招きで韓国マットの視察に出向いた馬場は当日夜にソウル市内のホテルで大韓プロレス協会の関係者と会食、馬場にはグレート小鹿と大熊元司が同行。そこへ会食の噂を聞きつけて来た大木が突然姿を現しました。

大木「馬場さん、ここまで来ていて無視はないでしょう。もう何年も無視されて…俺の挑戦を受けてもらいますよ」小鹿が先ず牽制し「大木さん、場所をわきまえて下さい」とたしなめましたが血走った目の大木は引き下がる様子はありません。

奥の席に座っていた馬場は「向こう(新日本プロレス)とは何もないのか?」と聞くと、大木は「ああ、何もない」と答え、新日本プロレスとは契約がないことをアピール。馬場「それだったら受けてやる。ただ今日はこんな時間(深夜)だ、明日改めて話し合おう」と大木の挑戦を受諾、翌9月23日の昼間からソウル市内のホテルで改めて馬場と大木が話し合い、両者のシングルマッチが電撃決定。日時場所は「日本に帰ってから伝える」(馬場)

韓国から戻った馬場は9月26日、後楽園ホールで開幕の「ジャイアント・シリーズ」最終戦である10月30日、蔵前国技館で大木とシングルマッチを行うと発表。試合は時間無制限1本勝負のノンタイトル戦、PWFルールを適用(場外10カウント)、レフェリーはジョー樋口。

大木との大一番を前にした馬場は10月14日、松山・愛媛県民館で全日本プロレス初参戦となる「猛牛」オックス・ベーカーの挑戦を受けてPWFヘビー級王座防衛戦を行っています。

ベーカーのセコンドには2日前の10月12日、大阪・千里万博記念公園お祭り広場でザ・デストロイヤーを破りPWF認定USヘビー級王座を獲得したばかりのアブドーラ・ザ・ブッチャーがついています。1本目は8分24秒、ベーカーの持ち出した椅子を馬場が奪って脳天を一撃し8分24秒、片エビ固めで先制のフォール。2本目は4分28秒、ベーカーがタイツに隠していた凶器で攻撃しましたが、馬場が凶器を奪いカウンターの凶器打ち、そのままフォールに入り体固めでカウント3が入り2−0のストレート勝ちで馬場が29度目の防衛に成功。

ノーテレビでしたが、馬場はベーカーを相手に大技を使わずベーカーの持って来た椅子と凶器を奪い取って反撃しただけで2本フォール勝ちを収めた珍しい試合であり、大木戦に向けて力強さをアピールしましたが、悪い言い方をすれば地方のノーテレビのタイトルマッチで手を抜いた印象は拭えません。

この時期には馬場のPWFヘビー級王座の防衛戦のペースがガクッ落ちています。王座設立された73年は9か月で9回、74年が14回、75年が6回ですが1〜5月迄で5回、5月9日、日大講堂でのブルーノ・サンマルチノとのWWWFヘビー級王座とのダブル・タイトルマッチからベーカー戦まで5か月も空いており、鶴田と組んでインターナショナル・タッグ王座を獲得したことで興行の二本柱となり、無理してPWFの防衛戦をやる必要もなくなった訳ですが、コンディションがあまり良くはなかったことは確かでした。

73年10月14日、新日本プロレス蔵前国技館で行われた猪木&坂口征二組とルー・テーズ&カール・ゴッチ組の「世界最強タッグ戦」。前の72年10月4日、蔵前国技館と10月10日、大阪府立体育会館で行われた猪木とゴッチによる世界ヘビー級選手権試合二番勝負(蔵前は27分16秒、猪木のリングアウト勝ち、大阪は23分12秒、ゴッチのエビ固めによるフォール勝ち)の特別レフェリーを務め、「刺激を受けた」というセミリタイア状態だったテーズがしっかりと身体を作って57歳でカムバック。49歳のゴッチと組んで30歳の猪木、31歳の坂口組と対戦した試合です。

1巡目の2015年は試合について書いていますが、2巡目では違う観点から書いています。前72年は日本プロレスを除名・追放処分となった猪木が3月に新日本プロレスを旗揚げ、10月には馬場が全日本プロレスを旗揚げし男子プロレス団体は2つから4つに増え、結果1枚のチケットで見られた馬場、猪木、坂口、大木金太郎、吉村道明を見るのに3枚のチケットが必要になったことから地盤沈下を起こし、観客が減少、「プロレス冬の時代」とまで言われました。

中でもノーテレビで旗揚げした新日本プロレスは興行的には大苦戦、73年3月に坂口が合流しNETの放送が始まってからは躍進がスタートしていますが「あと数ヶ月、坂口の加入、NETの放送開始が遅れていたら、新日本は潰れていたかも知れない」という記事も紙面(誌面)に乗りました。

73年4月には日本プロレスが崩壊し、日プロ勢は全日本プロレスのリングに上がり、3団体時代になりましたが、プロレスマスコミのオピニオンリーダーである東スポの井上博社長はプロレス復興の為にプロレス興行に対し後援だけではなく、主催者に名を連ねプロレス界をサポート、プロレス人気の復興に尽力します。

井上社長は猪木を高く買っており、特別興行である「世界最強タッグ戦」を東スポ主催興行として開催、まだタッグベルトがなかった新日本プロレスで「世界最強タッグ」のタイトルを興行名につけました。テーズとゴッチが組むというかつてないシチュエーションであり、当時日本最強タッグチームだった猪木&坂口組との試合は世界最強タッグ戦と命名するに相応しい大会名だったと思います。 

※対戦成績は156戦31勝125敗、勝率199。
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