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2021年02月14日22:38

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週プロ流智美あの日あの時予想2020年総括(39)

第155戦 10月7日発売号●【予想】日本初の世界選手権試合、力道山、鉄人ルー・テーズに挑戦(57年日本プロレス後楽園球場)【正解】鶴田友美国内デビュー戦、vsムース・モロウスキー(73年10月6日全日本プロレス後楽園ホール)【参考】2015年10月7日発売号は格闘技世界一決定戦、猪木vsアンドレ・ザ・ジャイアント(76年新日本プロレス蔵前国技館)

【解説】力道山は大相撲からプロレスに転向し52年2月、ハワイにプロレス武者修行に出発し、ボビー・ブランズ、沖識名のコーチを受けてプロレスラーとして活躍、またNWAからプロモーター・ライセンスも取得しますが、約2年間の修行で敗れたのはルー・テーズ、フレッド・アトキンス、タム・ライスの3人と言われています。

力道山は海外修行の総決算として53年12月6日、ホノルル・シビックオーデトリアムでテーズのNWA世界ヘビー級王座に初挑戦、43分、テーズのパイルドライバー(ドリルアホール式ではなく固めない投げっぱなしパワーボムのような感じの技、別名「リバーススラム」と呼ばれる)に敗れ王座奪取はなりませんでしたが、これで自信をつけた力道山は既に前年には一旦帰国し日本橋浪花町(現在の日本橋富沢町)にプロレスセンターをオープンさせ、日本プロレスリング協会を発足させるなど準備万端。

翌54年2月19〜21日には蔵前国技館でベン&マイクのシャープ兄弟を招いてのプロレス国際試合を開催、日本にプロレスを根付かせました。それから3年8か月後の57年10月、力道山はプロモーターとして世界王者テーズを日本に呼ぶことに成功。10月6日、後楽園球場と13日の大阪・扇町プール特設リングの2回、テーズに挑戦することになりました。

6日の後楽園球場は雨天の為、翌7日に順延となりました。特別レフェリーは両日ともにダニー・プレッチェス。後楽園では両者60分ノーフォールの時間切れ引き分け、13日の大阪は1本目はテーズがバックドロップから体固め、2本目は力道山がカウンターの空手チョップから体固めに決めて念願のテーズから3カウントを奪ってみせました。

決勝の3本目はテーズが力道山をエアプレーン・スピン(飛行機投げ)に捉えましたが回転しているうちにバランスが崩れ、両者同体で場外に転落、そのまま両者リングアウトとなり1−1の引き分けに終わりましたが、日本のプロレスが世界レベルにあることを証明した2連戦でした。

この当時は「NWA世界ヘビー級選手権」ではなく、単純に「世界選手権」とだけ銘打っており、翌58年8月27日にロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムで力道山がテーズを破ってインターナショナル王座を獲得した際も「世界選手権を獲得」と報じられ、また「あの試合はノンタイトル戦だった」とするマスコミもおり、周囲を混乱させました。

全日本プロレス期待の新星・鶴田友美は72年10月31日に「全日本プロレスに就職します」という名言を残しプロレス入り、中央大学卒業後の73年3月22日に渡米しテキサス州アマリロでドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクのコーチを受けました。3月25日、アマリロ・スポーツアリーナでエル・タピアを2分、ダブルアーム・スープレックスからの体固めで破りデビュー戦を白星で飾りました。

5月20日にはニューメキシコ州アルバカーキにてドリーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、1本目は43分にドリーが体固めで取り、2本目は60分時間切れ。1−0で敗れましたが、世界王者ドリーを相手に60分フルタイム闘ったということはドリーから「未来のメインイベンター合格」のお墨付きをもらったようなものでした。

10月に凱旋帰国、10月3日、恵比寿の山田ジムで行われた公開練習ではダブルアーム、フロント、サイド、ジャーマンの4種類のスープレックスを披露、関係者やベテラン記者を驚かせています。

そして「創立1周年記念ジャイアント・シリーズ」開幕戦のこの日国内デビュー戦、ムース・モロウスキーとのシングルマッチが行われ、12分53秒、ダブルアーム・スープレックスからの体固めで勝利を収めました。

鶴田の国内デビュー戦は日本プロレス史上、歴史的価値は大きいとは思いますが、わざわざ日付を変更してまで採り上げる価値まであったかと言うと疑問です。翌年のカレンダーを見れば1年後には最優先で採り上げ出来る材料なので。

他の10月7日の主な出来事と言えば、昭和だけでも日本テレビ「全日本プロレス中継」放送開始(72年)、マイティ井上、スーパースター・ビリー・グラハムを破りIWA世界ヘビー級王座を獲得(74年国際プロレス越谷市体育館)、ウィリエム・ルスカ柔道三人掛け試合(76年新日本プロレス蔵前国技館)、記録に載らぬ番外戦、上田馬之助が山本小鉄を血の海に沈める(同)。

80年代ではテリー・ファンク、リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に日本で挑戦(81年全日本プロレス横浜文化体育館)ブルーノ・サンマルチノvsブルーザー・ブロディ日本で一騎討ち(同日)、谷津嘉章がアメリカ再修行から帰国、維新軍に加入(83年新日本プロレス後楽園ホール)、鶴田のブレーンバスターでアニマル浜口が脳震盪を起こし失神(85年全日本プロレス江南市民体育会館)など、ざっと私が記憶しているだけでこれ程あり、調べればまだ出てくるだろうと思います。

日付変更を否定する訳ではないですが、原理原則にはある程度は則って頂きたいです。

※対戦成績は155戦31勝124敗、勝率200。
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