mixiユーザー(id:3341406)

2020年07月20日22:16

595 view

絵師の魂 渓斎英泉

増田晶文(まさふみ/1960- )の時代小説『絵師の魂 渓斎英泉』を読む。
2019年1月、草思社発行。

江戸時代後期、特に文化文政時代に活躍した浮世絵師 渓斎英泉(1791-1848)の生涯を、史実をベースにして描きだした長編フィクション。

渓斎英泉は下級武家の出だが、侍奉公には向かず、浪人になり、当初、市村座の狂言作者になろうとするがうまくいかず、浮世絵師 菊川英山の下で学ぶ事となる。
しかし、一門一派の教えには属さず、葛飾北斎に私淑する他、独自の画風を開発していく。
アクの強い美人画、春画で知られるようになるが、仕事の幅はかなり広い。風景画、団扇絵、挿絵、また文筆面でも、戯作、随筆等を残した。「若竹屋」なる女郎屋の経営をしていた時期もある。
「ベロ藍」(ベルリン藍=プルシアンブル―)は北斎の『冨嶽三十六景』で知られるが、日本で最初に絵に使用したのは英泉である。色使いには天才的なものを持っていた。

英泉の《雲龍打掛の花魁》はゴッホが気に入って模写し、のち《タンギー爺さん》(1887)の背景にも描き込まれている。
フォト


フォト


物語には英泉に関係した人物が登場し、彼の画業や人生にどう影響したのか突き詰めていく。
葛飾北斎(1760-1849)は先にピックアップしたが、英泉は彼の革新精神に見習うところ大で、父のようにも慕っていた。
他に歌川広重や歌川国貞等の画家、文筆家では曲亭馬琴、十返舎一九、為永春水等、本屋(=版元)では保永堂の竹内孫八、蔦谷吉蔵他。

歌川広重(1797-1858)の《東海道五十三次》(1833-47)は3版の存在が知られ、「保永堂版」、「行書版」、「隷書版」と呼ばれている。竹内孫八の本屋 保永堂は、これを出版し大いに儲けた。
これによって、浮世絵は本格的に風景画の世界にも取り込まれる事になったのである。
そののち《木曾街道六十九次》(1835-41)では、保永堂は英泉に声をかけた。
英泉の画風は大いに玄人から評価を受けたが、購買者層には理解されず、あまり売れなかったと本小説はしている。
英泉のあとを広重が引き継ぐ。
全72図のうち24が英泉作で残りが広重である。
英泉の図は遠近法を取り入れ、奥行きが表現され、色彩も驚く程多様である。
以下参。

《木曾街道 倉賀野宿 烏川之図》
フォト


《岐阻街道 桶川宿 曠原之景》
フォト


曲亭馬琴(1767-1848)は読本『南総里見八犬伝』の大ヒットで知られるが、馬琴は途中から挿絵画家に英泉を指名した。
為永春水(1790-1844)は人情本『春色梅児誉美』(しゅんしょくうめごよみ)等で文筆に手を染めるが、本小説では当初売れない新進本屋で、英泉とよく悪所で遊んだ。英泉は春水を「腐れ縁」と称している。

英泉は6歳で生母が死に、20歳の時継母と父が亡くなった。
英泉の下には、歳の離れた異母妹3人が残され、彼女達を養う必要があった。
心中の問題としてこの2つの事は、英泉の生涯と作品を作る上で大きな影響を及ぼした。
これが、この小説のキモとなっている。
無論心中の問題は、歴史の表舞台に現れる事はない訳で、であるが故に、増田昌文は想像力を発揮できたという事であろう。

特に継母は、いつも少年英泉の支えとなり、英泉からすれば、彼女は豊穣のシンボルで、且つ決して踏み越える事のできない禁断の憧れでもあった。
こうした胸のくすぶりが、意識するにせよしないにせよ、彼の美人画にも春画にも影を落としていたのではないか、そう増田は考えたのである。
彼のともすれば放蕩に走る根っこも、当然そこにある。
 
1 3

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年07月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031