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2009年12月23日02:06

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ニキータ・ミハルコフ 映画『12人の怒れる男』

レンタルDVDで、ロシアのニキータ・ミハルコフが監督をした映画『12人の怒れる男』を観る。
シドニー・ルメットの同名作品は名作として名高いが、これはそれを2007年にリメイクしたもの。
少々2作を比較しながら話を進めてみたい。

リメイクとは言ったが、1950年代のアメリカから現代のロシアに時間と場所が置き換えられただけでなく、もっと強くオリジナリティを感じる。
原作の時代、少なくとも同時代を生きている人達にとって、声高らかに理想と呼ぶ社会正義というのは、1枚構造だったろうと思う、特に合衆国という国にあっては。
そういう理想主義、悪く言えば楽天主義は、現代社会ではなかなか通じない。現代に生きる我々は、共通の理想に辿り着く事がいかに困難に満ちているか、日々思い知らされるばかりである。
社会主義という理想、いわば神に代わるものが死んで、ロシアも混迷の只中にいる。人々は、秘密警察等ない自由で豊かな生活が訪れると思っていたが、富は1部に握られ、裏表で異なる正義がまかり通る世がやってきた。そして民族間、宗教間の戦いは救いの糸口さえ見えない。法廷に引き摺り出されたのは、義父殺しの嫌疑をかけられたチェチェンの青年である。陪審員達は、ロシア人だけでなく、ユダヤ人、カフカス人等が混じる。

また原作の面白さは、隔離された密室での会話劇、それが次第に真実を焙り出していくサスペンスにもあった。
リメイクでは、隔離された密室は同じだが、レトリックによって真実が暴かれていくという雰囲気はない。彼等の口から提示されるのは、そういう解釈もあるかもしれない、という程度のものであって、有罪か無罪かを決定づける程の新事実とは言い難い。
容疑者のというよりも、12人の陪審員自身の人格や生活、過去等が、次第に曝け出されていき、その向こうにロシア社会の混迷が見えてくるところに、この映画の妙味があると思う。
法廷の審議が終わり、自分達の評決が求められる場に転換した時、当初、陪審員の大多数は、有罪間違いなし、即ち終身刑、と、お気軽に思っていた。
したがって、彼等は別室に入って言う、評議等最早必要ない、即投票をしよう、と。
だが、12人全員が同じ結論に達する事が必要とされているこの制度で、1人が、審議の不十分、または、有罪とは言い切れない部分があるのではないか、と示唆した事から、彼等は紛糾し、感情が露わとなり、争い、次第に、気軽な態度で人を裁く事ができないのを思い知らされていく。人を裁く事は、まず自分と向き合うのを求められる仕事であるのだ。

ただ、映画の進展と伴に、ミハルコフの独特な神秘主義とでもいうべきものが、時折り溢れ出てきて、おやっと思わせる。
これは、書き記してきた法廷劇、会話劇の展開の先に存在するものとしては、少し異質でしっくりこないところがある。理性の場から神秘の場へ、ミハルコフは一体何処へ観客を引き摺って行こうとするのだろう、と、そのムードの転換に、私は正直言ってやや困惑した。
片方で物事を暗闇から明るみに引き出す努力をしながら、もう片方で濃い霧に引き込もうとする、そんな矛盾を感じた。
ミハルコフをもっと観知っている人にとっては、これは判りにくい問題ではないのかもしれない。これがミハルコフの骨の太いダイナミズムなのかもしれない。

本筋から離れるが、ミハルコフの黒澤明へのオマージュが表わされたイメージが幾度も繰り返し出てくるので、触れておこう。
チェチェン、容疑者の少年期の家の前。爆撃で荒れ果て、戦車の上の死体には雨が降り続く。戦車の影から小さな犬が小走りに出てくる。口に何かくわえているが、雨脚に掻き消されてよく見えない。
黒澤の『用心棒』を観ている人は、ひょっとしたら、とここで思う筈だ。
このシーンは、追憶のフラッシュバックのように何度も繰り返される。
そして、映画の最後では、犬が更に前方に走って来て、くわえているのが人の手首だという事が判る。
これは、まさに『用心棒』の冒頭場面である。


監督・脚本・出演 ニキータ・ミハルコフ
撮影 ヴラディスラフ・オベリヤンツ
音楽 エドゥアルド・アルテミエフ

出演 セルゲイ・マコヴェツキー,セルゲイ・ガルマッシュ,ヴァレンティン・ガフト,アレクセイ・ペトレンコ

受賞 2007年ヴェネチア国際映画祭特別獅子賞

2007年露映画
 
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