所謂「ユートピア思想」「ユートピア文学」といった具合に今では使われる一般名詞の語源となったトマス・モアの『ユートピア』。この本は、私有財産を否定する架空の理想国「ユートピア(どこにもない国)」を描くことで、エンクロージャーによってようやく資
中江兆民は「東洋のルソー」と称される。では、「東洋のバーク」は誰だろう? ――なんて思って、ルソーの『社会契約論』とバークの『フランス革命についての省察』の読み較べというのをやってみた。前者は近代革命思想のバイブルであり、後者は近代保守思想
昨日発売のフーの13年ぶりの新譜『WHO』が感動的に素晴らしい。レジェンドクラスの新作にこれほど感銘を受けたのは、2015年発売のブライアン・ウィルソンの『ノー・ピア・プレッシャー』 以来。収録されている一つ一つの楽曲が素晴らしいだけでなく、隅々まで
7日夜、WBSSバンタム級決勝の井上尚弥対ノニト・ドネアの試合があった。僕は仕事をしながらのテレビ観戦となった。井上は、僕が知る限り日本ボクシング史上最強のボクサーだと思う。彼のような勝ち方を続けるボクサーを、僕は見たことも聞いたこともない。伝
小澤征爾の『ボクの音楽武者修行』を読んだ。まだ海外旅行自体珍しかった1950年代末に、弱冠24歳の若者が、ひょんなことから舞い込んだチャンスを逃さず欧州へ渡航し、欧米の楽壇でシャルル・ミンシュやヘルベルト・フォン・カラヤンやレナード・バーンスタイ
映画『帰ってきたヒトラー』の姉妹作(?)として、イタリアでは『帰ってきたムッソリーニ』が作られ、近く日本でも公開される。それにしても、旧枢軸国の中で、なぜ日本でだけ同種の映画が作られないのか。それは、日本ではヒトラーやムッソリーニに相当する
「良いことだから付け足すとか、悪いことだから取り除くというようなことがあってはならぬ。というのも、追従ゆえに誇張したり、愚にもつかぬ気づかいから省略したりすることなく、真実をあるがままの姿で伝えるのが、一般に忠臣の主君に対する務めというもの
何かとメディアに槍玉に挙げられる麻生太郎の叔父であり、吉田茂の長男である吉田健一の対談集成という本があったので読んでみた。目玉はやはり、吉田健一と父親・吉田茂との対談だろう。吉田健一が30過ぎのいい歳をして、吉田茂のことを「パパ」と呼んでいる
昨日は中曽根大勲位101歳の誕生日だったということで、以前図書館のリサイクルコーナーで入手した、中曽根康弘と梅原猛の対談『政治と哲学』を再読。これは1996年に出た本なのだけど、その後23年の平成政治の展開を透徹した歴史観で見事に予見しているのに一
岡潔と林房雄の対談『心の対話』を読む。こんなことが語られている。林「私は新憲法なるものは第一条からしてけしからんと思ってます。しかし“象徴天皇”から話を進めましょう。象徴でも天皇の本領は変らない。象徴というのは、形のないものを形で表わすもの
今更ながらジョイスの『若い芸術家の肖像』を読んだ。正直、その実験的要素(そもそも英語で読まなければ意味がないのかもしれないけど)はすでに古びて驚きを覚える次元のものではなかったが、全体を通しての印象を悪くなかった。プロットを要約すると、郷土
ちょうど先日、ネットで無料で読めたので『マッド☆ブル34』を全部読んだところだった。『マッド☆ブル34』は小池一夫の代表作とは言えないかもしれないが、僕と同じ世代の人間にとってはもしかしたら『子連れ狼』より印象深い作品かもしれない。『マッド☆ブ
万葉集を典拠とする「令和」に新元号が決まったことを受けて、万葉集ブームが起きそうな気配だと報じられている。うちにある万葉論をざっと探してみたところ、とりあえずこれだけ出て来た。僕が一番面白く読んだのは山本健吉の『詩の自覚の歴史――遠き世の詩
内田裕也がミュージシャンとしてどれだけの評価すべき仕事を残したのか、僕には判断できないのだけど、音楽的才能とは別次元の(多分彼には音楽的才能はほとんどなかったと思う)、イメージも含めた「ロックンロール」の日本への土着化の一つの大きなサンプル
平成も残すところあとひと月あまりとなった。元号ごとに一つの時代と捉え「明治時代」「大正時代」「昭和時代」と振り返るのは、欧米にはない日本だけの歴史に対する視点なので、元号は非効率的で不要という人もいるけど、僕は面白い制度だと思う。大袈裟にい
今日の朝日の天声人語は、コカインで捕まったピエール瀧を坂口安吾のヒロポン中毒と絡めつつ、作者と作品は別物だから、ピエール瀧の出演している『あまちゃん』などの放送自粛をするべきではない――と主張している。英米のミュージシャンだとクスリをやって
東日本大震災から8年。当時、様々なイベントが自粛などで中止される中、シンディ・ローパーが来日公演を決行し称賛されたことは未だに語り継がれている。余震の恐れがある中、イベントを中止するのも、決行するのも、ともに勇気の求められることだったと思う
三島由紀夫の『小説家の休暇』を再読。『失われた時を求めて』を論じてゲルマント一族の御曹司ロベール・ド・サン・ルーに注目しているくだりを見つけた。「人間が一瞬でも他の人間になる可能性に対して、プルウストほど、綿密な冷笑を以て報いた作家はない。
先日図書館で、佐藤泉という人の『一九五〇年代、批評の政治学』(中公叢書)という本を見つけた。「この本では、一九五〇年代に活躍した三人の批評家、竹内好、花田清輝、谷川雁を軸にして、この時代特有の問題意識について再考したいと思う。なぜ五〇年代な
「回想は、忘却があるために、それ自身と現在の瞬間とのあいだに何の関係を結ぶことも、何の連鎖を設けることもできないで、その場所に、その日付にとどまって、あるいは谷の窪に、あるいは山の頂の尖端に、その距離と孤立とを守ってきたとしても、突然に新し
太宰治の創作力は戦時中に絶頂に達していたと思われる。竹内好に「太宰の他に読むべき作家はいなかった」と言わしめた戦時中の作品群はまさに「傑作の森」ともいうべき壮観をなしているが、当時太宰は30代であり、年齢的に徴兵されていてもおかしくなかった。
市原悦子というと、一般的には『まんが日本昔ばなし』であり『家政婦は見た!』なのだろうけど、個人的には『青春の殺人者』になる。昭和49年に千葉で実際に起きた親殺し事件に取材して書かれた中上健次の『蛇淫』を原作として撮られた長谷川和彦監督第一作『
三島由紀夫の『日本文学小史』と柄谷行人の『日本近代文学の起源』を読み較べるのも面白いかもしれない。意識的なものかどうか分からないが、後者は前者を方法的に反駁するような構えを持つ著作である。すなわち、前者は精神分析的方法を拒否し、後者は精神分