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2019年04月03日01:55

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万葉集の精神

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万葉集を典拠とする「令和」に新元号が決まったことを受けて、万葉集ブームが起きそうな気配だと報じられている。うちにある万葉論をざっと探してみたところ、とりあえずこれだけ出て来た。

僕が一番面白く読んだのは山本健吉の『詩の自覚の歴史――遠き世の詩人たち』で、これはドイツのビルドゥングス・ロマン風の味わいがあり、ことにもここで描き出される大伴家持の姿は『ブッデンブローク家の人々』のハノー・ブッデンブロークをも思わせる旧時代の理念に殉じて滅びゆく没落王子として造形されていて、最終章にはほとんどヴァーグナーの『神々の黄昏』を聴くような暗い恍惚境へと誘われた。また、この本では、家持の父であり、「令和」のもとになった「于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」の序で飾られた「梅花の宴」のホストであった大伴旅人が、酒好きの豪放磊落な粋人として描き出されているのも印象深い。

「令和」の考案者ではないかと報道されている中西進の『旅に棲む――高橋蟲麻呂論』は、万葉時代のいわば放浪詩人であった高橋蟲麻呂を主役にした一冊だが、ことに日本史上最初の自殺者ともされる真間手児奈を詠った歌について考察した一章は、さながらゲーテのグレートヒェン悲劇にも通じる、複雑な精神と素朴な魂が出会った際の現代でも繰り返されている「悲劇の原型」へと思い至らせてくれる仕上がりになっている。

また、最近のもう一つのメディア上の話題であるピエール瀧のコカイン使用容疑での逮捕に引きつけると、コカインをやりながら万葉集の現代語訳を行なった折口信夫の仕事も忘れてはならないだろう。古代と現代の往還には、そもそもどこかしらサイケデリックな幻想性が付き物であることを、ゲーテの『ファウスト』第二部と並んで毒々しくも目眩めくような色彩とともに示しているのが折口訳の万葉集ということになるだろうか。

そして、この中で最も問題的な万葉論は、やはり保田與重郎の『万葉集の精神』になるだろうか。ヘルダーリンの『アンチゴネー』論に比すべき作品がもし日本にあるとすれば、おそらく保田の『万葉集の精神』がそれに相当するのではないだろうか。ヘルダーリンと保田與重郎にあっては、古代と近代をパラタクシスに描き出そうとしたとき、その愛国の至情はほとんど亡国の激情と見分けのつかないテキストとして成立することになった。

さて、万葉集の編纂者は大伴旅人の令息である大伴家持だとする説が有力だが、三島由紀夫は自決の少し前に書いた保守派によく引用されるエッセイ「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」で次のように述べている。

「この二十五年間、私のやつてきたことは、ずいぶん奇矯な企てであつた。まだそれはほとんど十分に理解されてゐない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによつて、その実践によつて文学に対する近代主義的妄信を根底から破壊してやらうと思つて来たのである。
 肉体のはかなさと文学の強靭との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強いの結合とは、私のむかしからの夢であり、これは多分ヨーロツパのどんな作家もかつて企てなかつたことであり、もしそれが完全に成就されれば、作る者と作られる者の一致、ボードレエル流にいへば、「死刑囚たり且つ死刑執行人」たることが可能になるのだ。作る者と作られる者との乖離に、芸術家の孤独と倒錯した矜恃を発見したときに、近代がはじまつたのではなからうか。私のこの「近代」といふ意味は、古代についても妥当するのであり、『萬葉集』でいへば大伴家持、ギリシア悲劇でいへばエウリピデスが、すでにこの種の「近代」を代表してゐるのである」(三島由紀夫「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」)

ここで『万葉集』(大伴家持)も「近代」であると看做されていることは、存外重要なことなのではないかとも思う。三島が看做したように、そもそも『万葉集』が近代的精神によって構想されたものであったとすれば、「万葉集の精神」を超えることこそ、日本においては常に「近代の超克」の試みを意味することになるのではないだろうか。
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