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2019年02月13日00:37

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プルーストにおける映画的回想の小説への導入

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「回想は、忘却があるために、それ自身と現在の瞬間とのあいだに何の関係を結ぶことも、何の連鎖を設けることもできないで、その場所に、その日付にとどまって、あるいは谷の窪に、あるいは山の頂の尖端に、その距離と孤立とを守ってきたとしても、突然に新しい空気をわれわれに呼吸せしめることができるというのは、確かにその空気が、われわれのかつての呼吸した空気だからである。この空気こそは詩人たちが楽園にみなぎらせようと試みて果たさなかった、あのいちだんと清らかな空気なので、それも過去に呼吸されていたことによって初めて、あのように深い蘇生の感覚を与えることができるのだ。なぜなら真の楽園とはひとたび失われた楽園だからである」(プルースト『見出された時』)

映画が人間の知覚にもたらした大きな変化は、クローズアップやロングショットによる細部や遠景の空間的切り取りの他に、モンタージュやフラッシュバックによる時間的切り取り、すなわち過去と現在という異なる時間を同時的に体験させることによる「回想」の形式のビジュアルな次元での一般化である。こうした過去と現在という異なる時間を同時的に体験させる映画的な「回想」の形式を、大々的に小説の形で展開したのが『失われた時を求めて』ではないだろうか。

プルーストが小説を書いた1900〜20年代は、映画という新興メディアのもたらす体験が人間の知覚にどのような変化を及ぼすのか、そしてその変化をいかに文学に反映するかが、大きな芸術上の問題であり課題であった。プルーストは映画というメディアをさほど高く評価していないが、映画という視聴覚メディアを否定的媒体として、小説という活字メディアを超克する(近代の超克)という、花田清輝的弁証法が『失われた時を求めて』では実践されていて、それ故にこの長編は近代文学史上に画期をなす作品となったのではないだろうか。

プルーストが失われた時を見出したとき、文学における「近代」が終わり、「現代」が始まった。歴史区分の学説の一つに、「近代」は第一次世界大戦をもって終焉したという説がある。『失われた時を求めて』の執筆刊行と第一次世界大戦が並行しているのも興味深い歴史の暗合である。
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