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2019年05月28日12:32

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古き良きおおらかな昭和の保守派

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岡潔と林房雄の対談『心の対話』を読む。こんなことが語られている。

林「私は新憲法なるものは第一条からしてけしからんと思ってます。しかし“象徴天皇”から話を進めましょう。象徴でも天皇の本領は変らない。象徴というのは、形のないものを形で表わすものでしょう。神は、自然科学も、哲学的思惟も、到達し得ないところに在る。その意味の神の象徴が天皇だというのなら、かまいません。天皇陛下ご自身は人間ですよ。人間ですが、目に見えない至高なるもの、到達し得ない実在の象徴として、天皇という価値を、日本人はおよそ二千年前から五千年前ぐらい前に創った」

岡「ちょっと待って下さい。十万年前です」

林「岡先生は、十万年前でしたね。まあその頃に、天皇という芸術品を創作したのが日本民族です。これは素晴らしい創作です。創作は、実体の直観によって可能なわけでしょう。それが文書によって初めて定着されたのは、記紀です」

岡「日本民族は天皇制を創る前に、高天原時代を経過しています。それから天皇制ができて、いらい連綿として十万年です」

普通だったら、林房雄の「天皇という価値を、日本人はおよそ二千年前から五千年前ぐらい前に創った」というところで「おいおい」とツッコミが入るのだけど――そして実際、岡潔はそこにツッコミを入れているのだけど、そのツッコミの方向が、現代風にいえば「斜め上」過ぎて、もうツッコンでるんだかボケてるんだか理解不能の強烈な一撃で、林房雄が常識的に見えてしまうマジックがここで生じている。

ちなみに、この岡潔の「十万年前」発言は、たとえば次に引くような岡の主張を受けたものだろう。
「だいたい日本民族は、天御中主命から数えると三十万年にはなると思う。人類あって以来六十万年(百万年ともいわれていますが)、それが物質が自分ではなく、心が自分だと初めから気づいているというのは実にはやい。だから、日本民族は、私、他の星から来たのだろうと思います。この意味で、天孫民族といえるだろうと思う。ともかく、日本民族の中核の人は、心が自分だと思っている。だから、日本民族というのは心の民族です。だから、子供を真我に目覚めさせるためには、民族の詩であり歌である歴史を教えるということが何にもまして大事なんです。日本民族は優れた民族であるだけではなく、人類をその滅亡から救うという重い使命をになわされている。私たちは何よりもそれを自覚し、そうであることに誇りを持たなければならないのです。でなきゃ、教育できない。そう思います」(岡潔「日本の教育への提言」)

これは、これからの日本の教育をどうすべきか、というシンポジウムに招かれた時の岡の発言だが、名高い数学者が「日本の教育への提言」と題して、こんなパンチの効いた講演を行っていたのだから、60年代というのはつくづくファンキー且つサイケデリックな時代だと思う。

日本国憲法がけしからん、くらいのことは保守派であれば誰でも言うことで、正直最早アクビが出るような話題なのだけど、皇統の起源は十万年前である――と一歩も譲らぬ気迫で反論する岡潔の前に、三島由紀夫から「私はこんな滅茶苦茶な船長を見たことがない」と評された林房雄ですらも、さじを投げて大人の対応で華麗にスルーしている辺りが、『心の対話』の読みどころの一つだろうか。

ちなみに、三島由紀夫の最大の好敵手とも精神的双生児とも称される橋川文三は、岡潔を次のように評している。

「岡潔の著述には奇妙な感じを与えるものが多い。そこには妖幻という感じ、古怪という感じの話がしばしばこともなげに述べられていて、私たちはある種のシャーマンの言葉を聞いているのではないかという思いにとらわれる。たとえば、その日本民族起源論は、かつての木村鷹太郎にまさるとも劣らぬ荒唐無稽な三十万年前の空想をくりひろげており、道元禅師に出会ったという不思議な体験談や、数学者リーマンはひょっとすると日本民族の遠い祖先、「たかみむずび達の一人ではないかと思っている」などのことが日常茶飯事のように語られているが、岡はたとえば柳田國男も時として関心をいだいた神秘な他界との間を自由に往来しえた人物のように見える。それは神秘家(ミスティーク)の素質に近く、必ずしも保守のそれとはいえないかもしれない」(橋川文三「日本保守主義の体験と思想」)

岡潔は、保守派というよりも神秘家として捉えるべきではないか――という橋川の指摘、これは流石の慧眼だと思う。数学というのが、きわめて現実的でありながら、具体よりは抽象を前提とする思考によって成立する学問であることも、岡潔の神秘家的パトリオティズムを解く鍵かもしれない。直観と抽象を事とする数学者ならではの日本への愛の吐露――それが岡潔の「日本民族十万年前起源説」の中核をなすものだったのではないだろうか。

ともあれ、岡潔のミスティックな「日本民族十万年前起源説」に較べれば、昨今話題の百田尚樹の『日本国紀』などは、まだまだケツが青い。

右にしろ、それにツッコむ左にしろ、どっちも言うことのスケールがチマチマと小粒になっていることこそ、真に憂うべきことなのかもしれない――そんな風にも思わせてくれる、林房雄と岡潔の古き良きおおらかな昭和の保守派の対談でした。
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