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2022年11月06日17:45

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秋の奥浜名湖 三ケ日の遺跡を歩く

浜名湖の最奥 猪鼻湖(いのはなこ)、それを取り囲む浜松市北区三ヶ日町にある3ヶ所の遺跡を訪れた。
「三ケ日人」の骨が見つかったのも、名の通りこの辺りで、太古から人が住みつき文化を育んでいた地域である。
数多くの遺跡があり、今回はそれらの中で「西山古墳」、「公家塚(くげづか)」、「瓦塔(がとう)遺跡」に行ってみる事にした。

三ヶ日町内に「釣(つり)」という変わった名の地域があり、その広々としたミカン畑の中に西山古墳群はある。
今年4/8、浜松市博物館の「古墳へでかけよう!〜浜松の横穴式石室」展、及び4/30、同館の新発見古墳調査報告会(「石の塔古墳・唐沢古墳群発掘調査報告会」)で、本古墳について若干の出土品展示と説明があった。
以下リンク参。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1982053605&owner_id=3341406
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1982215808&owner_id=3341406

「古墳群」とあるように、かつては数十基もの円墳が散在していたとの事だが、殆どは農地開拓途上で失われてしまった。
今残るのは2基だけで、うち1つは大きな石に面影を残すのみ。石の上には碑が見える。
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もう1つ、ミカン畑の間の細い道を入っていくと、通称「釣 西山古墳」(12号墳とよばれる事も)が見つかった。
墳上のクスノキとサクラは大木になっているし雑草もはびこって、最初は何処にあるのか分からなかった。

説明板と上のリンク資料によると、古墳時代後期7世紀に造られた円墳で横穴式疑似石室を持つ。
墳の直径14.5m、高さ4.5m。羨道の長さは15.1m、玄室は3.33m。
入口(羨門)は雑草に覆われていて狭く、クモの巣をかき分けて足から何とか滑り込んだ。
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入ると中は意外に広く、高さは2.21mで立ち上がる事もできる。
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正面にある大きな石が鏡石。天井石はそれ以上に大きい。
振り向いて入ってきた狭い入口方向を見る。
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天井に何やら黒いものが静かにぶら下がっている。どうやらコウモリのようだ。
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最近はコウモリ等見た事がない。
私も彼を驚かせないよう、中では静かにしていた。

説明板には出土品についてこう書いてある。
「この円墳は明治初年に発掘されたものといわれ、その際、塚の周囲からは円筒埴輪が、また内部からは刀身の破片や土師器が多数出土したと伝えているが、今日それらすべて破損散逸して何も遺されていない。」

墳上に登って周囲を見回してみる。
写真は東方向。ミカン畑が続く。
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次の目的地は、「只木(ただき)」という地域にある「公家塚」である。「三ケ日人」の骨が見つかったのが只木である。
Googlemapによると西山古墳から北東方向へ6km程の山中と表示される。オレンジロードを走り近く迄行ったが、それから大いに迷った。
Mapに従ってミカン畑の中の狭い坂道を行くのだが、イノシシ対策だろうか、あちこちフェンスで遮られている。
やむを得ず降りて歩くと、「電気に注意」と書かれた青い電線柵も張り巡らされていて怖い。
しばらくして地元の人を見つけ公家塚への道を尋ねると、ミカン山を下迄降りて川沿いに右へしばらく行くとあるよ、と教えてくれた。

Mapにはない道だが、教えられた通りに行くと、茫々の雑草の中に説明板があった。
こう書いてある、
「この7基の宝篋印塔は、古公家塚と言われて有名である。摩訶耶(まかや)の千頭峯(せんとうがみね)城で戦死した南朝公卿の墓ではないかと推定される。
千頭峯城は足利尊氏家来の高師兼(こうのもろかね)に攻められ1339年10/30に落城した。」
公卿等は千頭ヶ峯城でなく、逃走の途中、ここで殺されたとの資料もある。

千頭峯城跡は公家塚の2km程南西の山頂にある。
私は2021年の1月に行っている。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1978287556&owner_id=3341406
千頭峯は摩訶耶(まかや)寺の歴史とも関係がある。(*)
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981435897&owner_id=3341406

雑草に埋もれそうな大小の塚。石は相当に削れてしまっていて、文字も見つからない。朽ちて落ちてしまった石もありそうだ。
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秋の青空の下、7つの石は悄然と並んで、南東の千頭峯の方を向いている。
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最後の目的地は「宇志(うし)」という地域にある「瓦塔遺跡」である。
公家塚から南へ約2kmの山腹にあるが、真っ直ぐはいけないので、オレンジロードを大回りして崖っぷちのくねくねとした山道を10分強。
現在正式には「宇志北大里(きたおおり)遺跡」と呼ばれる。
説明板によると、
「瓦塔とは、瓦製の仏塔のことで、奈良時代から平安時代前期にかけて経済的事由等により(大規模な)木造塔の代わりに建立された瓦製の小塔をいう。」
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発見されたのは1957(昭和32)年、復元は翌年。
古は国内のあちこちに建てられたようだが現在はすべて灰塵に帰し、発見されたパーツを寄せ集めて復元されたのは東京都東村山と当地の2つのみ。
しかも、この瓦塔は、建立されていた場所・状況が明らかな唯一のもので、大変に価値がある。
復元されたものは現在奈良国立博物館に所蔵されており、ここにあるのは実物大の複製。
以下、奈良国立博物館所蔵品。総高2.03m。
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第1層の4面の扉に仏像が浮き彫りされていたり、周囲に塔を保護するための柵があったり、その精巧さに驚かされる。
以下、初層屋蓋部のクローズアップ。
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この瓦塔も摩訶耶寺の歴史と関係が深い。上のリンク(*)参照。
摩訶耶寺最初期の前身「新達寺」は奧山の富幕山に創建された。
しかし、(新羅人の反乱?により)焼失、只木の千頭峯の東側に再興の地を定め、取り敢えず草堂を建て「眞萱寺(まかやじ)」とした。
旧に優る寺を建立すべくここに瓦塔を建て浄財を募ったが、実現できなかった。
その後の進展により「摩訶耶寺」となった謎も多い経緯は、リンク文をお読み頂くとして、ここでは省略する。

瓦塔遺跡から南を望む。
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遥かに猪鼻湖が霞んで見える。
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〈参考資料〉 
・「三ヶ日町の史跡」
 発行 三ヶ日町役場経済課
・「三ヶ日町の史跡」
 協力 三ヶ日町郷土を語る会、浜松北区市三ヶ日地域自治センター
 発行 三ケ日町観光協会
・「三ヶ日町宇志 瓦塔遺跡」
 発行 三ヶ日町宇志瓦塔遺跡保存会
 
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