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2022年09月22日10:18

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池澤夏樹 ヨルク・シュマイサー『古事記』詩画集「満天の感情」出版記念講演会

池澤夏樹氏の詩と、ドイツ人版画家ヨルク・シュマイサー氏(1942−2012)の木版画で構成された詩画集「満天の感情」の発刊を記念し、京都市中京区寺町通の「ギャルリー宮脇」で、シュマイサー氏の作品展が開催され、あわせて、池澤氏の記念講演が行われた。
シュマイサー氏は、10年前に亡くなっており、妻の敬子さんが、ゲストとしてオーストラリアから駆けつけてくださった。

ちいさなギャラリーには30人ほどの聴衆でいっぱい。わたしは友人ともども、一番前の席に陣取ることができ、すぐ目の前で池澤さんがお話したり、詩を朗読したりするのを見られて、逆にこちらが緊張してしまいました(;´∀`)

以下、当日、わたしのメモによる、お話の概要です。聞き洩らし等もあり、完全な再録ではありませんが、当日の様子が伝われば、と思います。

<池澤>1970年に、ヨルク・シュマイサーさんが創作した「古事記」のシリーズを当時見て、いいなあ!と思い、1セットお借りして手元に置いていました。
これをもとに詩を書き、最終的に詩画集が作れたらいいな、と考えました。
でも、詩を書き始めたら、なかなかうまくできない。
52年経ってようやく、「満天の感情」が出来た。シュマイサーさんは10年前に亡くなり、この本で彼を偲びたい。

(ここでシュマイサー夫人の敬子さんが、亡き夫とのなれそめをお話された。)
<シュマイサー敬子>古事記は1300年も前なので、52年なんて何でもないです(笑)。
1970年は、大阪万博で日本中が沸いていました。
わたしはドイツ館スタッフにに応募して、半年ほど通っていました。音楽がテーマで、シュトックハウゼンやカラヤンも来場してくれました。
ここには図書館もあったのだけど、ほとんど来てくれない。静かな空間でした。
ちょうどわたしのシフトだったとき、若い人がやってきて、それがヨルクさんでした。当時、ドイツ・グラモフォンを図書館に収蔵していたんです。
ヨルクさんは、このレコードを聴きたい、と要望、音楽が終わってもそのままいて、わたしに話しかけ、大丸の展覧会のチケットを見せたり。
そのとき、彼は別の女の人を待っていたんですが、来なかったみたいで(笑)。その後、ヨルクさんから葉書が来て、付き合うようになり、72年に結婚しました。
でも彼がどうして古事記の作品を作ろうと思ったのか、聞けないままです。
死後、出てきた日記によると、1968年3月にハンブルクから出発して、あちこち旅行し4月4日に日本に着いて京都に行き、そこで大学の教授に挨拶。
誰のために芸術を作るのか?と質問され、将来、自分の好きな人が自分の作品を喜んでくれたら、とその時思ったそうです。

<池澤>ドラマチックな話を聞くと、あとがやりづらい(笑)。
シュマイサーさんの版画を手元に置いて時々見ていましたが、そのあいだ、他の詩集を2冊出しました。
そして「満天の感情」というタイトルをまず決めて、8つぐらい詩を書いた。1990年ぐらいです。あと10いくつ書けば詩画集が出来る、と思ったが書けなくなった。
ほかの仕事が増え(註・池澤氏は1988年に芥川賞を受賞)、小説と言う世俗的なものを書くようになった。小説を書いていると、詩が出てこない。
小説家で詩人、というのは室生犀星ぐらいではないだろうか。
人との出会いが文学全体の素材です。とっておく、そして小説用なのか詩のためか、入り口が違う。マグロを買って、サクにするか、ソテーにするか決めて、冷蔵庫や冷凍庫に入れるようなもの。

10数年前、河出書房新社の人から、文学全集をやろうよ、と提案されましたが、それは時代錯誤ではないか、と。
かつては文学全集が作られ、売られた、でも教養主義はすたれ、文庫中心の娯楽主義に変わった。僕はムリだと言ったがやりようがあるかもしれない、とも思いました。
それで2006年から「世界文学全集」を僕の個人編集として30巻出しました。
3分の2まで進んだところで、「日本文学全集」もやりましょう、とさらに提案が。
僕はここ40年の日本文学はわからない、担当編集者にはムリだと言ってきた。
しかし、そのあと東日本大震災が起こった。東北の状況を見て、震災とも深く付き合った(註・池澤氏はクルマを運転して被災地に支援物資を運んだり、震災をテーマにした小説を発表したりしている)。なんて日本は自然災害が多い国だ・・地震、火山、津波、台風・・・そういうところで暮らしていた我々はどういう人間なのだろう?
それで、担当者とも、もう一回、考えてみようよ、と。
だいたい、僕は大仕事はうかつに始めてしまう(笑)。先へ先へともがいて、何年かたったらできている、というふうな。

まず、日本の古典をどうするか、そのままだと読めないし、これはお勉強ではない。
すらすらと読めるには文体が要る。
池澤さんはなにをするの?と訊かれ、僕はいわば監督だから、と言ったら、「ダメです、先に闘わないとついてこない」と言われて、日本文学史に最初に出てくる古事記の現代語訳をやることにしました。
古事記の文章は裏がない。源氏物語のような微妙な言い回しがないし、あの時代の人は、まっすぐで駆け引きがない。出会ってすぐに交わる、奪う、殺す。スピード感がある。
そこで「満天の感情」があったよな、と。
今度は「古事記」の現代語訳を終えて、詩が書けるかな、と思いました。
僕は古事記の人物を主人公にした「ワカタケル」を書きました。雄略天皇です。
乱暴な君主だが、日本と言う国の体裁を整えた、実在していることが確実な人物。「ワカタケル」を書いてひと息ついたところで、「満天の感情」が戻ってきた。

「ライト・ヴァース」という言葉があります。難しい言葉を使わず、サラサラ書いて味がある詩のこと。
僕がこの歳になって書いてみたらスラスラ書ける。「古事記」にはそんな力があるのだろうと思いました。無理に、シュマイサーさんの絵に合わせて、詩は作らなかった。
版画が待っててくれた、という感じです。

「書肆山田」という詩集を出す出版社が、丁寧な本を作ってくれます。
編集ひとり、営業ひとりの、小さい出版社ですが、夫婦で千何百点もの本を作ってくれた。ここから詩画集をだそうと考えていましたが、編集のかたが病気で今年の5月に亡くなってしまいました。
今年、ギャルリー宮脇さんが、シュマイサーさんの没後10年の展覧会を企画しており、僕は「古事記」を作った河出書房新社とえにしがあるので、大急ぎで河出さんのほうに
引き継いで、詩画集の制作を頼みました。

「自分対世界」の向き合う姿が、基本の構図ですが、僕は自分の中で『世界』を使いすぎると常々思っています。作品タイトルにも『世界』が入る物がいくつもありますし。
「世の中」でも「世間」でも「社会」でもなく『世界』。
最初はまず「自分」。それは古事記の前の段階。そんなことを考えていたんだと思います。

(詩画集「満天の感情」から「古キコトノ記」を朗読)

世界がどうやってできたか?創世記、というのが聖書の最初にあります。
ユダヤ教、キリスト教の考えでは、何から何まで神様が作った。最初に自分の姿に似せて人間を作った。そして任務を与えた。世界を管理してよりよい方向にもっていく、だから人間には理性と知性がある。
日本では違う。いわば反・創世記で、作ってもらった覚えはない、いたるところから生まれ出る。

ヨルクさんは木版画もやりましたが、基本はエッチングです。
でも、古事記には木版画が合っている。古事記の連中は力があふれて、密の密の密(笑)。湧いて出てきている。それを表現するには、木版画が良かったんじゃないか。木版は鑿と槌で力が要る。木版画を選んだヨルクさんは正しかった。
その後、旅と言う面白さの味を占めたんだと思う。

僕も旅が面白くて仕方なくて、いろんな人と会い、土地のものを食べ、言葉を覚え、なるべく長く居る。それを文章にしました。ヨルクさんはそれを絵にした。ヨルクさんと僕とは、旅が好きなだけじゃなくて、目的地も似ている。パリやローマやベルリンは旅であって滞在ではない。僕はニューヨークには行ったことがありません。いわゆる先端文明ではないところに惹かれる。
ヨルクさんはある時期、オーストラリアに住んでいます。
彼の作品を持っていた人とのつながりで、オーストラリアの国立大学で教鞭を執ることになるのですが、周りから「ハンブルクからオーストラリアなんて」と言われたけれど、本人は喜んで行き、とても気に入って長く住むことになりました。
僕も、何千年も前から絵を岩に描いている、オーストラリアのアボリジニの芸術に惹かれ、オーストラリアのヨルクさんをたずねて行こうと思っていたけど、実現しないまま、ヨルクさんが亡くなってしまいました。。
また、ヨルクさんはインドのラダックやザンスカールに行っている。どちらもチベット文化圏です。僕はこれらの土地には行ってないけど、ムスタン王国に行っています。ネパールの北にある国です。
3週間、馬に乗って上り下りして、4千メートルの峠を越えました。ヨルクさんもチベット仏教の文化的なものに関心があった。
「仏画を暗い中、どうやって壁画にして描いたのか?」と訊くと「屋根を作る前に、明るいうちに描くんだよ」と。
お互い「親友候補」だった。少し仕事のペースを緩めたら、オーストラリアか日本か、そこで彼といっぱい話をするはずでした。

(「満天の感情」から、長い散文詩の「物語」を朗読)

詩の定義は広い。いろんな形をやってみたかった。

南極の話をしましょう。ヨルクさんから話を聞き、ねたましい!行ってみたい!と思いました。ヨルクさんによればオーストラリア政府の出している船が、南極に物資を運んでいる、そこにアーティスト枠があって、選ばれた。船の上から氷山をたくさん見て、スケッチして作品にした、と。
僕は考えて、「南極を舞台にする小説を書きます、ひいては取材費を出してください」と新聞社にお願いすることに(笑)。それが「氷山の南」。

南極へは南米のいちばん南から出る観光用の船で行きました。大きなゴムボートで氷山のそばを通り、触ったり、ペンギンの営巣地を見たり。これはオーストラリアの旅行代理店の募集で、ツアー参加者はオーストラリア人ばかり。僕ひとりが外国人でした。
ペンギンには2メートル以上近づいてはいけない、と言われました。いわばソーシャル・ディスタンス。でもペンギンは寄って来るんですよ。何千羽もいる中でもピタッと子どもを親鳥は見つける。そして親は強い子を選んでいる。みんな育つとは限らない。走ってついてくる子に餌をやり、世代をつなぐ。これはヨルクさんに伝えたいエピソードだったのに、できなかった・・

(「満天の感情」から「刺し貫く」「仁と義」を朗読)
古事記の時代にはアニミニズムに儒教が入ってくる。仁や義の美徳がたたえられるようになる。「天皇制」の難しいのは、次代をどう選ぶか。候補がいるが、いすぎて殺し合いにならないか? 仁徳天皇など、ゴシップとスキャンダルばかりです(笑)。

(ここでひとまず、お話を終えて、参加者からの質問に答えるコーナー)

ー日本で詩集が読まれないことについて。なぜなのでしょう

<池澤>詩の読者が少ないのは、日本の特徴です。
逆に貧しい国だと、一晩で詩が書ける。
エリオットは、銀行員でしたが、詩作について聞かれると「1時間早起きすればいいんだと」と言ったそうです。
日本では、詩のための才能が、俳句と短歌に行ってしまっている。それらに比べ、詩は、才能をすくい上げる力がないのか?と思います。

読書は、ゲームとSNSが敵。本はだんだん肩身の狭いところに追いやられています。
明治時代、書籍を読むようなインテリは少なかった。
だから本を読む人が少なくても仕方ない、という感じ。でも昔はそれなりに、本をたくさん読む人は、敬意をもって扱われていた。でも、最近は相手にされない。
SNSでみんな言いたいことを言えるようになった。そして、言いたいことを言って、おもしろいものが勝ち。
かつては校閲があり、価値があるものだけが世に出ていた。
SNSはその過程がない。日本学術会議への政府の対応など見ても「少しモノを知ってるからといって、エラそうな顔をするんじゃないよ」といった感じがします。

ーヨルクさんの日本の文物に対する、作品について

<池澤>自然に対する違いが、彼は面白かったんだろうと思う。
日本は生まれてくるもの、対してキリスト教世界では神が作ったもの、という視点の違い。それをエネルギーにしてきた。ヨルクさんは、発掘物などを緻密にスケッチしていますが、それでいて抒情的で、宇宙の深みがある。

ーヨルクさんの世界と、池澤さんの持つ世界とが違和感がありません。
また、ヨルクさんの作品は、沖縄の版画家・名嘉睦稔(なかぼくねん)さんを思い出し、アイヌの芸術と通じる気がします。

<池澤>彼は北海道にも行っていますね。沖縄はよくわからないけれど・・
(ここで敬子さんが「沖縄もよく行っています。大好きでした」と、言葉を添えられた)。
大都会は、暮らしの場としてはラクです。英気を養って、また辺境に行き、また戻って作品化する、という感じです。

<シュマイサー敬子>ヨルクさんはハンブルク出身だったのですが、どこでも寝られて、人付き合いもできて、何でも食べられる、旅するために生まれたような人でした。

ー敬子さんに質問です。奈良と京都について。

<シュマイサー敬子>わたしも奈良に住んでいました。奈良が好きです。
ヨルクさんも奈良に泊まって、早朝、唐招提寺に出かけていってスケッチしたりしていました。彼は京都では墨絵と木版画を勉強し、京都の芸大では版画を教えた。京都も大好きでした。


池澤氏もシュマイサーさんも世界中を旅し、それを作品化し、というところでまさに波長が合ったのだと思います。
また、ドイツ人の彼が、見事に古事記の世界を木版画に昇華していたことにも驚かされます。館内には、京都の祇園祭の様子や寺社、昔の釜山の街などのエッチング作品も展示されていました。

講演後、詩画集「満天の感情」のサイン会があり、列に並んだわたしは自分の番の時、「『また会う日まで』の単行本化はいつですか?」とたずねてみました。
「遅れててすみません、来年の三月に出ます」
「あの連載を読んでいて、福永武彦が福永末次郎の実子ではない、という話が出てきて衝撃だったんですが、福永武彦研究をされてるかたに訊いたら、研究者の間では周知の事実なんですよ、言われました」
「あれを読んだかたは、衝撃だと思いますね」
そんな話を交わしました。

今回の講演は、北九州に住む友人が教えてくれ、おかげで、池澤氏とシュマイサー氏との交友など、たくさんの話を聞けました。
友人はわざわざこの日のために北九州から新幹線で京都に足を運び、もうひとり、京都在住のやはり池澤夏樹ファンの友人ともども3人で講演を拝聴した後は、京都市役所近くのカフェで、講演の感想やいろんなことを語り合いました。
結果、とても貴重な時間となりました。
(9月17日、ギャルリー宮脇)
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