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2022年05月18日13:07

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生駒ビル読書会「ドライブ・マイ・カー」

大阪・北浜にある生駒ビル・地下会議室での読書会。
1,2カ月に一度のペースで、主に村上春樹作品を中心に開催されていたのだが、例によってコロナ禍で中断を余儀なくされていた。
昨年7月に一度開催したものの、その後もなかなか再開に至らず、「まん防」が解除になり、各種イベントの制限もはずされてきて、ようやく久しぶりの読書会。
リアル参加+オンライン参加のハイブリッド方式。
わたしはリアル参加したが、まさに2年数か月ぶりに再会する常連さんもいて、ちょっと感慨深かった。

テキストは、映画化、その後アカデミー賞の「国際長編映画賞」を受賞した「ドライブ・マイ・カー」。村上春樹の短編集「女のいない男たち」冒頭に収録されている。
この短編を中心に、映像化について、また、短編集の他の作品への言及もして、意見交換がされた。

リアル参加は、主宰者で、村上春樹研究の著作も多い作家の土居豊氏、読書会の場所を提供してくださっている、ビルオーナーの生駒伸夫氏、わたし(ごんふく)、Tさん(女性)、Oさん(男性)、Rさん(女性)の6人、オンラインでは、途中退出も含め5人ほどが参加。

以下、その概要です(参加者の皆さんの発言など、わたしがメモを取りましたが、聞き洩らし等もあり、完全な再現ではありません)
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最初に、映画「ドライブ・マイ・カー」を見たかどうかを土居氏が尋ねると、見たのは土居氏、わたし、Oさんの三人だった。

<土居さん>予備知識なしで、原作読まずに見ても、映画として成立していたと思う。
ただ、僕が見に行ったときは「話題の映画だから見に来ました」というタイプの観客が多くて(笑)、中途で帰ったり、エンドロールが始まると退席したりという観客が見られました。長尺の映画ですからね。

「ドライブ・マイ・カー」が「文藝春秋」に掲載時は「中頓別町」という、北海道に実在する自治体名が出てくるのですが、中頓別町の人間はみんな煙草のポイ捨てを普通にやってるんだろう、という描写があり、これがけしからんと、地元の議員からクレームが来て、単行本化の際、地名が「上十二滝町」という架空の町名に書き換えられました。これ、村上春樹ファンだとピンと来るでしょう、「羊をめぐる冒険」に「十二滝町」が登場しますよね。

「女のいない男たち」に収録の「イエスタデイ」も単行本化で書き換えがあります。
「文藝春秋」掲載時に、関西弁での、ビートルズの「イエスタデイ」の替え歌が冒頭にあるんですが、単行本ではさいしょの「昨日は/あしたのおとといで おとといのあしたや」という2行だけ。著作権代理人から「示唆的要望」を受けた、という事情による、と単行本の「まえがき」に村上氏が書いています(資料として「改作前」の雑誌掲載時オリジナルのものを提示)。
嘉門達夫もビートルズの替え歌を関西弁で歌ってるのがあるんですが、ゲリラ的に歌うことはあっても録音はされていない。

映画「ドライブ・マイ・カー」については、「木野」「シェエラザード」のエピソードも入っています。
原作では「みさき」という女性が謎めいていて、村上作品に多い、主人公の男性を導くタイプ。でも映画では、もっと生々しい印象でした。
改めて「ドライブ・・」を読み返して、やっぱり村上春樹はうまい小説家だなあ、と思いました。

<Oさん>映画が3時間で、しかも主演が西島秀俊なのでどういうこと?と最初思った。いい男過ぎるし(笑)。原作の主人公の欠点が少なくなっている気がしました。原作に漂っている毒のようなものが解毒されてしまっている。三浦透子はよかったと思う。原作にある「毒」をいかに表現するか、は難しい。
劇中、韓国の俳優が手話で表現するところがあるけど、韓国人の知り合いが言うにはどこか手話を見せものにしている感じ、という不満を口にしていました。
高槻役の岡田将生が、いちばん闇をかぶった感じだった。それから、主人公の家福とみさきが、広島からクルマで北海道まで行くシーン、そんな長い距離、しんどいやん!と思ってしまう(註・原作にはそのシーンはない)。
映画「ドラブ・マイ・カー」は「喪失」を描いている、なんて言うけど、そんなひとことでは言えないものが、原作ではたくさん散りばめられているので、さすが、と思います。

<ごんふく>わたしは昨年夏の、封切り日に観に行きました。最初上映時間が3時間と聞いて、原作は50頁しかないのに、あれがどうやって3時間になるの?!と不思議でしたが、ほかの短編のエピソードを足し、主人公が俳優なので、広島の演劇祭に参加する、と話をうまく膨らませていますね。
ちょっと原作との相違を言うと・・原作ではクルマは黄色、映画では赤、原作では妻の浮気相手が高槻だと気づいている、映画ではなんとなく感じているがはっきりと断定していない、原作ではみさきの雇用は、家福が事故を起こして免停になったから、映画では演劇祭事務局の方針で専用運転手をつけた、原作では妻の死因は子宮がん、映画では突然死、原作では家福が高槻をそのうち隙を見て懲らしめよう、と思うが、映画では自滅するように高槻が暴力事件を起こす・・等々ありますね。
原作をまた読み返して、きっちりと書き込まれ、登場人物のエピソードも過不足なく、力量ある小説と思いました。このちょっと前にいわゆるラノベを読んだんですけど、やっぱり全然文章力が違うなあ、と。
文庫本の69頁、「こちらでやりくりして、吞み込んで、ただやっていくしかないんです」というみさきの言葉が、とても印象的です。
みさき役の三浦透子は、原作のイメージぴったりでした。
でも映画ではこんな諦観ではなく、家福もみさきも過去に向き合い、新しい一歩を踏み出す、みたいな感じになってました。映画的にはそのほうがいいのでしょうね。

<生駒さん>映画を見たくないわけではないんですが、原作を読んでいると、原作のイメージにどれだけ近いか、で映画を評価してしまいそうです。
文章というものは、イメージだけで持たせることができるのですが、映像にしてしまうとそれで決定されてしまう。原作との乖離ばかりを考えてしまうことになります。
原作の「盲点」という言葉が、一番気になりました。
注意すればするほど、見えていない・・
短編には長編にない面白さがあります。「盲点」を起点に展開する長編も書けるんじゃないかと思います。

<土居さん>「盲点」は、村上春樹のおなじみのテーマ。
映像では「盲点」を描くのは難しい。ただ妻の浮気に気付いていない、間抜けな場になってしまう。

<Rさん>わたしは「男のいない女たち」を書いてみたら、どうなるのだろう、と思いました。原作のほうは、女性の立場からしたら、納得できないところがあります。
西島秀俊はファンですが、映画を観たら逆にがっかりするんじゃないかと思って見ていません。
男か、女か、ということではなく、失ったり、別れたり、人間はどういう物が必要なのか、他人のことを見つめたかったら、自分のことを見つめないといけない。
「独立器官」(註・「女のいない男たち」に収録の短編)を読むと、自分は何者なのかみんなわかっていない、わかっていないから、他人ともなぜなんだ!?とすれ違ってしまうのだと思いました。

<生駒さん>村上春樹は地下へ降りていく、とか穴に入るとかをずっと書いているが、外を見ていても、見渡してもわからない、結局、自分自身を見つめないといけない、ということ。

<土居さん>映画の高槻のセリフは、トランス状態で何かが憑いて喋らせているような、別人が喋っているような演出でした。原作のセリフがほぼそのままですが、あれは、原作を読んでいないと違和感があると思う。

<Tさん>家福は、妻がなぜ浮気したのか?と問いかけるとみさきが、心なんかひかれていなかったから。女の人はそういうところがあるんです、という場面がありますが、男性は「エビデンス」が必要なのかな、と思いました。
夫のことが嫌だから浮気した、とかではなく、そういう心情を村上春樹は描くのがうまい。高槻は奥行きがない、と描かれているので、そのへんは映画で見てみたい。
短編集の最後に納められている「女のいない男たち」の、昔の恋人が亡くなったことを知った虚無感のあいまいさを、文章化したところが好きです。

<生駒さん>そういうところは上手だし、やはり村上春樹って面白い。

<土居さん>原作では謎めいていているみさきだけど、映画では家福と心が通じ合う中で、傷心が回復していく、という設定になっている。

<Oさん>これだけの男性関係を奥さん、よく隠してたなあ、と思いました(笑)。
自殺願望みたいなところがあったのかな、と。奥さんの暗い陰の部分は、ちょっとやそっとでは簡単に消せない。
そして村上作品には多いけど、主人公の人間関係が希薄、友だちも必要ない、友だちは奥さんだけ、それはそれで、奥さんもキツいんじゃないのかな、と思う。

<生駒さん>村上春樹がドーナツのたとえをしていますね、食べたら真ん中には何が残るのか、と。周辺を描いて、真ん中の穴を考えさせることについては、天下一品だと思います。周囲の状況は描くけど、登場人物の詳しい状況は地の文では書かない。

<土居さん>村上春樹が嫌いな人は、男のダメなところを慰めてくれる女性が出てくるのはご都合主義、と言うでしょうね。
男女間の孤独感みたいなものは、時代を先取りしているな、と思う。
コロナ禍で、男女関係も変わりつつある。「盲点」という理解の届かないもどかしさは、時代を先取りしすぎていた。
最後に収録の「女のいない男たち」の主人公については、すべて自分の妄想ではないのか、という孤独感がひしひしと伝わってきます。

<生駒さん>村上春樹、昔と比べて親切になっていませんか?(笑)。
前書きを書いているし、短編集の最後には書下ろしを加えているし。

<土居さん>これは、ビーチ・ビーイズの「ペット・サウンズ」のようなコンセプトアルバムだ、と言っていますね。彼の短編はいろんな好みの人に対応できる。村上春樹初心者は、ホラーチックな側面もある「木野」が気に入ったら、彼の長編も読めるでしょう。

<ごんふく>「シェエラザード」に出てくる「羽原」って「1Q84」の青豆の男版みたいに思いました。北関東のどこかのマンションに身を潜め、女性が定期的に食料を配達しにやってくる。羽原の場合はそこで女と情事も発生しますが、青豆も高円寺のマンションにアジトのように身を隠して、協力者がときどき必要なものを持ってくる。

<Oさん>羽原の場合は、メンタルを病んでそういうところに住んでいるのかな、と思いました。「独立器官」や「イエスタデイ」では、いわゆるセレブの人々の生活の問題の書き方がうまいなあ、と思う。
映画「ドライブ・マイ・カー」では、家福が、ちゃんと傷つくべきだった、と言うのだけど、もうすでに傷ついているのでは?
演劇祭でいろんな国籍の人を登場させ、理想的な世界を描こうとしたのだろうけど。

<土居さん>「ワ―ニャ伯父さん」が原作にも映画にも出てきますが、言葉のコミュニケーションが大前提で縛りが強い。原作の「闇」を映画で出してくるのは難しいでしょう。
同じ映像化作品の「バーニング」(原作は「納屋を焼く」)は、セリフに意味がなく、ことばの無力さが出ている。何かおかしい、何かが隠されている、というのが醸し出される。映画「バーニング」のほうが村上春樹らしい作品。
映像化する場合に困るのは、本来使われないようなセリフが原作に出てくること。歯が浮いてしまう。逆に翻訳したもののほうがいいときもある。

村上春樹作品もは、本来(著作権の関係などで)使えなさそうな固有名詞がポンポン出てきます。それは固有名詞が持つ力のようなもの。それを仮名にしたり、よく似た名前にしたらだいぶ雰囲気が変わってしまう。今回の中頓別町が上十二滝町になってしまったのは、やはり残念なことだと思う。

<ごんふく>村上さんは、原作が映像化で変えられたりしたら気になりませんか?というインタビューで、むしろどんなふうに変わってるんだろう、と見るのが楽しみ、と答えてますね。
余談ですが、映画「ノルウェイの森」については、村上さんは奥さんから「主役の松山ケンイチは、若い頃のあなたに似てるわね」と言われたんだそうです(笑)。

<土居さん>アカデミー賞の受賞もあって、うちは「ドライブ・マイ・カー」のロケ地だ!といろんなところがPRしていますね。中頓別町の議員は、村上春樹をそんな大きな存在とは思わなかったんでしょうね。

<Oさん>最近彼はオーディオブックの企画をやったりしてて、高橋一生が小説の朗読をするようですね。
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午後7時から9時まで約2時間の読書会でした。
オンライン参加者も含め近況報告もしましたが、コロナ禍の2年余のあいだ、わたしは最近内視鏡検査でポリープが見つかって切除、ほかには転倒して手首を骨折した、会社で倒れて救急搬送されペースメーカーを入れた、視力低下で拡大鏡でやっと本が読める状態などなど、病気やケガに見舞われたことが次々に判明しました。
それでも、ひさしぶりに顔を合わせ、特にリアルで語り合えたのはやはり心から楽しく、これからも元気で、またこの地下会議室に集って語り合いたい、と強く思ったのでした。
(5月17日)
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