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2022年03月04日16:29

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「岸田劉生と森村・松方コレクション展」(京都国立近代美術館)

先月、所要で京都に行った時、地下鉄の駅に岸田劉生展のポスターを見つけ、ぜひ見たいと思っていた美術展。
会期終了間近となり、昨日「そうだ、京都行こう」と洗濯を終えると、京都に向かった。

京都国立近代美術館は、2021年3月に、岸田劉生作品42点の寄贈があった。新収蔵を記念しての展覧会である。
岸田劉生、というと多くの人が思い浮かべるのが「麗子像」であろう。
わたしもそうだが、彼の作品は「麗子」シリーズと、東京国立近代美術館で見た、切通の斬新な構図の風景画ぐらいしかよく知らないのだ。
そんな人にはうってつけの展覧会。
彼の若い時から晩年までの画業を一堂に観覧して堪能できる。

岸田劉生は1891年(明治24年)東京・銀座の生まれ。
東京高等師範付属の小・中学校に進むが、中学の時、相次いで両親が亡くなってしまう。
学校を退学した彼は数寄屋橋教会に通うが、彼が描いた水彩画を見た牧師が、劉生の絵の才能を見抜き、画家になることを勧める。

洋画研究所で劉生は黒田清輝に学び、ゴッホやセザンヌの影響を受け、また白樺派の人道主義に共鳴し、若手画家たちと「草土社」を興して、精力的に画業に励む。

22歳で結婚し、翌年、麗子が誕生。
代々木に居を構えるが、結核と診断され(のちに誤診と分かった)、療養のため鵠沼に転居。
しかし1923年の関東大震災により、京都に住まいを移す。
京都には三年ほど住むのだが、最初の住居は、なんと、この展覧会会場の近代美術館からほど近い場所だ。

その後関東に戻り鎌倉に住むが、画壇の勢力争いに巻き込まれる形になり、所属の洋画団体「春陽会」を脱退。そのとき、彼に何かと手を差し伸べたのが、梅原龍三郎であった。

劉生はフランスで絵の勉強をすることを望み、その資金稼ぎもあって、知人のつてで満洲に渡った。
しかし体を壊し、帰国の途上に寄宿した山口県で死去。
まだ38歳の若さだった。

改めて彼の人生を知ると、初めて知ることばかり。当たり前だが、岸田劉生は「麗子像」だけの画家ではなかった。
クリスチャンだったからか、初期には聖母像、天使像などの宗教画も多く描いている。
展覧会ポスターにもなっている、若き日の自画像はゴッホ風で、芸術に邁進せんとする、彼の意欲がみなぎっているかのようだ。
白樺派との交流からか、来日した、バーナード・リーチ氏を描いたものもあった。

また、妻は日本画をかつて学び、歌舞伎が好きだったということから、その影響で、日本画、掛け軸、寒山・拾得が画題の南画、歌舞伎を描いた小品も数多く残している。
京都時代には舞妓の絵も。
これらもはじめて目にする作品群。
今回の展覧会の目玉にもなっているまっ赤な布をまとった麗子像は、油彩かと思っていたが、よく見ると水彩画だった。
また、初期の風景画から、作品のコンセプトが静物画に移っていくという過程も面白い。
そして、劉生ら当時の若手画家を支えた、大阪の芝川照吉という人物も忘れてはならない。
彼はパトロンとして資金援助しただけでなく、画家たちと対等につきあい、交流を深めた。彼の肖像画も展示されている。
岸田劉生の生涯を丹念にたどれる、充実の展覧会だった。

また、会場の最後には新収蔵の劉生作品を多く旧蔵していた「森村・松方コレクション」そして芝川コレクションより、葛飾北斎、歌川広重、ブーダン、藤田嗣治、青木繁、坂本繁二郎などの名品も出展されていた。

「松方」といえば、美術好きの人なら「松方コレクション」の松方幸次郎を思い出すだろう。
幸次郎は明治の元勲・松方正義の三男。
森村義行は十四男(養子に入って名字が変わっている)、松方三郎は十五男である。
このふたりの末弟の収集だが、名高い幸次郎同様、上質のコレクションだ。
(3月3日、京都国立近代美術館)
※画像・左 展覧会のポスター 
※画像・右 展覧会の看板 右に平安神宮の赤い鳥居が見える
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