NHKーBS1での中村哲さんのドキュメンタリー。昨年暮れにも放映されていたが、その再放送である。
中村さんの幼少期からの生い立ちを、彼を知る人々に取材して語ってもらっている。
中村さんの母方の祖父母は玉井金五郎と玉井マン、伯父(母の兄)は、作家の火野葦平である。玉井夫妻は火野の小説「花と龍」のモデルといえば、お分かりの方も多かろう。
特に祖母のマンから、中村さんは影響を受けたようだ。
「弱い者いじめをしてはいけない、職業に貴賤はない」というのが祖母の教えだった。
小学生になった中村さんは昆虫採集に夢中になる。彼と虫採りに行った同級生は60年前を思い出しながら、福岡県古賀市の森の山道をたどる。
「彼は蝶が好きで、ただ採るだけでなく、よく観察していて、このへんの道、川沿いを蝶が通るんだ、と教えてくれるんですよ」。
中村さんの実家は旅館を営んでいたが、父、中村勉は社会運動家で、暮らしは決して豊かではなかった。きっぷのいい母親によって旅館の運営をやりくりしていたが、教育熱心な両親の元、中村さんはミッション系の私立中学の西南学院中学へ。
同級生は「山登りが好きで、いっしょに近くの山にずいぶん登った。でも決して運動は得意じゃなかった。英語が抜群に出来ていつも100点でしたよ」と語る。
この頃、中村さんは盲目の牧師と出会い、のちに洗礼を受けることに。
牧師は「20歳で失明し、人生に絶望した。そんな自分は『信頼』がなければ生きていけなかった。人を信頼することこそが生きるよすがになった」と、中村さんにも話したそうだ。
ある日、日曜礼拝にやってきた中村さん。牧師は「お前、きょうは公立高校入試だろう?」と言い「あ、そうだった!」とあわてて出かけて行った。
でも、地元屈指の進学名門校・福岡高校に合格。
高校では人見知りで、なかなかうまく人と会話ができない、ということに悩んでいたという。
同級生の女性も「ほとんど中村くんとは話したことなかった。わいわいおしゃべりしている中に入っていくタイプじゃないひとで・・」と言う。
そんな中、親しくなったのが中村元氣さん。彼は家が貧しく、奨学金で高校に通っていたうえ、放課後は家計の為にアルバイトをしていた。
元氣さんは「貧乏、というのはさげすみの対象で、アルバイトのことも同級生には黙っていた。でも、哲くんにはなぜか話せたんです」。
人の役に立ちたい、と思ったことから、医者になろうと、難関の九大医学部に入学。
だが、時代は学生運動の嵐が吹き荒れる。
エンタープライズ佐世保寄港反対運動などに参加したものの、先鋭化しセクト主義に染まる運動に違和感を感じて身を引く。
番組では触れていなかったが、医学部時代には鹿児島の無医村を回ったりしていたようだ。
大牟田市の労災病院で働きだした中村さん。
その当時、同窓会に出たとき「刑事コロンボよりもみすぼらしいような上着を着て、ポケットから給料袋を出して、その中から会費を払ってました」と、同級生はのちに葬儀の弔辞で思い出を披露している。
そしてヒンズークシの登山隊に随行する医師を募集していると知って、「高地なら珍しい蝶が見られるかも」と思って、中村さんは参加。それが人生を大きく変えた。
現地の住人の診察もしたものの、登山隊のために薬を残さねばならず、十分な医療など施せない。お願いします、と懇願する人々を振り切るように先に行かねばならなかった。
日本だったらさほどでもない金額で治せる病でも、貧しい現地の人々は病院にかかれない。「同じ人間の命なのに、こんな不公平があっていいものだろうか」。
その義憤が彼を突き動かすことになる。
最初はパキスタンのペシャワールで、らい病患者の治療にたずさわる。治療薬が開発されてもなお、すすんでこの病気を診察する医師はほとんどいなかった。
もともと神経内科が専門だった中村さんは、一時帰国して外科を学び直す。らい病のため、変形したり、皮膚に穴があいたりするので、形成手術が必要なのだ。
病院のない山岳地帯には馬に乗って険しい道や谷を越え、診療を行った。
やがてアフガニスタンに活動の拠点を移すが、アメリカの同時多発テロが起きる。
オサマ・ビンラディンを匿っているから、とアメリカはアフガニスタンを攻撃。
自衛隊の海外派遣も国会で取りざたされるようになり、中村さんは国会に招致され、「自衛隊の派遣は有害無益。現地の人の為にはなりません」と答弁。自民党の議員からは激しいヤジを浴びた。
アフガニスタンでは当時、干ばつが起き、医療以前に水の確保が喫緊の課題になっていた。
中村さんは活動募金を集めるため、全国を講演して回っていた。
しかし、実はその頃、彼の次男が脳腫瘍という重篤な病にかかっていた。まだ小学生である。本来ならそばにいてやりたい、せめて遊びに連れて行って楽しい思い出を残してやりたい、と切望したものの、なかなか時間も取れない。
次男は10歳で逝ってしまう。
中村さんは「子を失って、アフガンで、空爆や病気で子どもを亡くした親の気持ちがいっそうわかるようになった。他人事でなくなった」と述懐している。
まだ幼い息子の死が、さらにアフガンでの活動の原動力になったかのようだった。
そして、多くの人に知られたように、中村さんは白衣を作業着に替え、用水路建設に乗り出す。福岡の朝倉市に江戸時代から作られている取水堰を参考に、激流のクナール川にも耐えられる、川の流れに沿って斜め方向で少し緩やかな弧を描く、堰を設計。
用水路の水は枯れた大地を潤して、麦畑や果樹園に姿を変えた。
国家プロジェクトにも匹敵する事業を陣頭指揮し、アフガンの人々の生活向上に尽力。
しかし、一昨年、何者かに銃撃され、警護のアフガン人ら5人と共に殺害された。
葬儀の日、政治家でも芸能人でもないひとりのために、1300人もの人が福岡市の斎場に駆けつけた。
柩が霊柩車に乗って走り出すと、参列者から拍手が沸き起こった。
それは見事な彼の人生そのものへの、惜しみない称賛だった。
アフガンの現場の事務所に、中村さんは祖父・玉井金五郎の写真を飾っていた。
隔世遺伝かと思うほど、中村さんとよく似ている。
中村さんの活動を長らくバックアップしてきた「ペシャワール会」事務局の福元満治氏は「いわば中村さんはアフガンで『花と龍』を実践していたようなものです」とたとえていた。
荒くれ男たちを束ね、指揮し、生活の面倒を見ていた金五郎。
まさにその気質を受け継いで、中村哲さんはアフガンで部族の長老たちと渡り合い、用水路の意義を説き伏せ、現地の男たちを組織し、自らイチから土木工学を勉強して、プロジェクトを完成させた。
あっぱれというほかない生き方だ。
だが、丹念に彼の人生をたどり直すと、なぜ彼がああいう生き方をしたのかが、少しはわかる気がする。
BSでの放映だったけど、こういう番組はぜひ地上波でも放送してほしい。
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