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2021年08月24日20:49

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魂が震える、山下りんの物語「白光」朝井まかて(文藝春秋)

幕末、笠間藩(現在の茨城県)に生まれた山下りん。
明治維新で暮らしも一変した。幼い頃から絵を描くのが得意だった彼女は、「絵師になりたい」という思いが募り、東京へ家出。
「明治の世にて、私も開化いたしたく候」と文を残して。
兄に一旦連れ戻されたものの、絵画への思いが断ちがたく、ついに絵の修業をすることを許される。

浮世絵師などの弟子を転々としたものの、彼女の才を生かしてくれる師には巡りあえない。
ようやく南画師の中丸精十郎のもとで腰を落ち着けて修業に励む。
しかし、明治政府の政策で、「工部美術学校」ができたことを知ったりん。
試験に合格するものの、授業料が払えない。
窮状を救ったのは、旧笠間藩主であった。
笠間出身の優秀な、将来の女性絵師の話を聞いたかつての「お殿様」が学費を援助してくれることになったのだ。

当時の明治政府は急速にヨーロッパの文明に追いつこうとして、さまざまな分野で「お雇い外国人」を招聘。
りんが学ぶ工部美術学校でもイタリア人「フォンタネージ」が指導にあたった。
「うわべの美醜を見るのではない。『真』を写すのです」。
彼のことばは、りんの心に深く残る。
しかし、フォンタネージが学校を去り、次に来た教師の授業はレベルも低く、勉強にならない。
学校の同窓の山室政子の誘いで、ロシア正教会に行ったことが、りんの運命を大きく変えることになる。

りんは、工部美術学校を中退。
ロシア正教会で洗礼を受け、宣教師のニコライからロシアに留学して聖像画(イコン)の勉強をするよう申し渡される。

かくして明治13年、りんはロシアへ旅立つ。
当時としては極東からは、宇宙旅行に行くにも等しい、たいへんな道のりだった。
船の船倉に押し込められ、乗客の残飯で飢えをしのぎ、同行の正教会の師の息子の子守りまで押し付けられる。
さらに鉄道も乗り継ぎ、25歳のりんは、3カ月近くかかってようやくペテルブルクへたどり着く。
そして女子修道院で待っていたのは、予想と違う「修業」であった。
暗くて陰鬱な、古いキリスト像を手本に描け、と言われるのである。

りんはラファエロのような「西洋画」を学ぶことを夢見ていた。
なにゆえ、稚拙、としか思えぬ聖像を描かねばならぬのか?
修道院の女性たちとは、絵の描き方をめぐり対立が続く。
厳しいロシアの気候、自分の思い描く美術への憧憬がかなえられぬ懊悩で、りんは体をこわしてしまう。

そんな中、エルミタージュ美術館で見た西洋画の数々は、彼女の、こういう絵を描きたい、という情熱を掻き立てた。
できるものなら改めてこの地のアカデミーで学びたい。
しかしあくまで彼女は、東京の正教会から派遣された身。
りんは、志なかばで、5年の予定を2年半で切り上げて帰国する。

帰国後もりんの試行錯誤が続く。
いったんは教会の工房を去ったものの、再び戻って聖像画を描き始めるりん。
りんの兄は、武士から西南の役出征を経て、苦労しつつ、石版印刷の会社を興した。りんも印刷物の下絵を手掛けるようになる。

教会のニコライ師の人柄に触れながら、りんはやがて、女子修道院で修道女たちが描かせた聖像画が、どんなに彼女らにかけがえのないものだったか思い至り、自分の思う芸術と、信仰のまじわらなかった空隙を改めて痛感するのだった。

激動の時代の中、日露戦争のさなか駿河台の正教会も暴徒に襲われそうになったり、またロシア革命で、本国正教会からの援助も途絶。
りんは、各地の正教会のため、多くの聖像画を描き続ける。

イコン画家・山下りんの生涯を鮮烈に描く長編小説。
彼女の画業は全然平たんではない。もう少し時代が後なら、そして女でなかったら、あるいは、のちの西洋画家たちのように、フランス留学もかなったかもしれない。
しかし、絵の道を選んだものの、試行錯誤し、回り道をし、壁にぶつかり、いつも困難の連続だ。
だからこそ、「絵を描きたい」というりんの情熱の火が燃え続けるさまが、激しく、心を打つ。

「死なば死ね、生きなば生きよ。
そう心に決めてロシヤに渡ったのだ。あやまちばかりの、吹雪のような青春だった。けれど胸の中には高々と燈火を掲げていた。芸術の道を求めてやまなかったのだ。我を忘れるほどに描き、一日、一週、一年、そして一生を過ぎ越した。」(序章より)

そして朝井まかて氏の、格調高く、凛とした文体も、まさに山下りんを語るにふさわしい。

わたしの高校時代からの友人が大学で教わった師・鐸木道剛氏は、日本のイコン研究の第一人者。そのこともあって、山下りんについては気になる画家だった。
本書の巻末の参考文献にも、鐸木氏の論文が挙げられている。
6年前には「日曜美術館」でも特集されていた。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1939673159&owner_id=5348548
なんだか、こうして朝井氏のこの小説を手に取ることになったのも、不思議な引き合わせのような気がしている。
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