テッキ(ヤン・イクチュン)は、済州島に住む「詩人」。
とはいえ、詩を書いて食べていけるだけの収入はなく、妻ガンスン(チョン・ヘジン)の働きで暮らしている。
同人サークルの合評会で、自作の詩を発表したら、「美しいものを美しいというだけで、人生の悲哀がなにも感じられない」と会員の女性(ペク・ジウォン)に酷評されてしまう。
子どもを欲しがっているガンスンだが、なかなかできず、病院を受診するとテッキが「乏精子症」と診断された。
なぜかそれが幼なじみの漁師・ボンヨン(キム・ソンギュン)に知られ、からかいのネタになり、テッキは「ホラ、エイの性器だ、食べろ!」と刺身を食べさせられる羽目に。
そんなある日、テッキは、港に新規開店したドーナツ店で働く美青年・セユン(チョン・ガラム)に心を奪われてしまう。
彼のことが気になり、ドーナツ店に長々と居座ったり、セユンが遊び仲間と夜たむろしているのを見つけ、泥酔した彼を家に送ったり。
一方、テッキとガンスンは、不妊治療をおこなうことになり、人工授精での子作りに病院に通う。
テッキは小学校で詩作や作文指導の授業もやっていた。
初日に「詩人なのに太ってる!」「詩人が腹が出ているのはおかしい」とさんざん子どもたちにイジられるテッキ。
テッキはセユンと親しくなり、家には病気で寝たきりの父親がいるのを知り、自分の亡き父が使っていた床ずれ防止マットや、もろもろを差し入れる。
30代後半にして、はじめて恋を知ったような気持のテッキ。
新しく詩のイメージがわき、合評会で辛口の女性からも新作をほめられた。
小学校の教室で男の子に「どうしたら詩人になれますか?」とたずねられ「詩人とは、代わりに泣いてあげる人だ。悲しみを抱えきれない人のために」とテッキは答える。
まるでそれを実践するかのように、経済的に恵まれず、病身の父を抱えたセユンを、テッキは支え、そばにいようとするが、それがやがてさまざまな軋轢を引き起こす。
「同情はたくさんだ!」というセユン。
「あなたはゲイだったの?」と疑うガンスン。
セユンの父はテッキにだけ「早く死にたい。息子の負担になりたくない」と、打ち明けていたが、やがて食事をとらなくなり、自死のようにして亡くなった。
セユンの母は悲しむどころか、香典代の勘定に忙しい。怒りにふるえるセユン。
彼の気持ちが分かるテッキは、セユンを一時、使っていない空き家に住まわせるのだった。
どう見ても恋人のようなふたりの間柄に、ガンスンはセユンを呼び出し、「わたしが働いて食べさせてたのに!」と徐々に怒りをぶつけてしまう。
テッキはついにセユンに、別な土地に働き口を見つけたから、「いっしょに行こう!」と強く彼を誘う。しかし、どうしても応じないセユン。
そしてガンスンは妊娠。テッキとセユンはそれから会うことはなかった。
それからしばらくして、テッキの詩集が文学賞を受賞。さらに夫婦の間には男の子も誕生した。
受賞パーティーの会場。
そこにやってきたバイク便の配達人はセユンだった。
テッキは彼にキャッシュカードを渡し、3000万ウォン入ってる、暗証番号はおとうさんの命日だ、と告げる。そしてセユンは島から別の土地へと、新しい生活に踏み出すのだった。
物語の舞台が済州島、ということで、海岸線の美しい風景に心惹かれる。
そしていつも思うのは、韓国はまさに「詩」の国なんだなあ、ということ。
日本では考えられないが、今でも詩集がベストセラーになるし、映画でも詩が引用されたり、主人公が「詩人」だったり(日本で詩人です、なんて言ったら、ちょっとおかしい人だねえ、という目で見られかねない)、登場人物が詩作のサークルに通っていたり、という設定をよく見かける。
まあ、日本には俳句、短歌があるから、詩作人口がそっちに流れてるのかもしれないが(カルチャーセンターにも俳句、川柳、短歌教室があるし)。
そもそも詩を書いて収入になるとは日本では思えないのだが、主人公テッキはマジメに詩人として生きようとしている。
冒頭「猟師になれない僕は、護衛となって城を守る」なんて、いい詩句だと思うが、合評会では評判はさんざんである(;´∀`)。
テッキのセユンへの思いは同性愛というより、同じ孤独な心をかかえた者同士ゆえの、シンパシーみたいなものではないかと思うのだが、テッキの心情や行動は、まさに恋する女子学生そのものなのである。
それがちっとも滑稽ではなく、セユンに会えると気持ちがはずみ、拒絶されると絶望してしまう、そんな繊細な青年を演じるヤン・イクチュンが好ましい。
彼は「かぞくのくに」(ヤン・ヨンヒ監督)では、一時帰国した在日青年(井浦新)を監視する北朝鮮の役人を演じていたから、全然イメージが違う。
この映画では、わたしは風間俊介に見えてしょうがなかったな(;゚Д゚)。
(12月1日 シネマート心斎橋)
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