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2020年11月09日19:42

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二俣城と鳥羽山城〜築山御前から信康最期の地へ

11/5(木)、二俣城跡と鳥羽山城跡へ行ってみた。
10月、佐鳴湖畔を散策した折りに、徳川家康の正妻だった築山御前最期の地とされる辺りを確認した。
参)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1977379003&owner_id=3341406

そして、同じ事件に絡んで嫡男 信康が自害させられたのが、この二俣城である。
築山御前が家康の家来に首を斬られて亡くなったのが1579(天正7)年8/29、信康が切腹させられたのが半月後の9/15だった。

二俣城跡と鳥羽山城跡は現浜松市天竜区二俣にある。
我が家から車なら40分程で着く。
二俣城は天竜川と二俣川の合流点の北の山稜上(本丸標高80m)にある山城で、戦の要塞として優れた場所に位置していた。
現在の二俣川は、北から真っ直ぐ南に下って、90°湾曲した天竜川に注ぐが、当時はその少し北で西に折れ、城の麓で天竜川に流れ込んでいた。(*)
鳥羽山城は、二俣城からすると、二俣川の向う岸の小山(標高108m)の上にあって、両城は一対のものとして構築されたと言われる。

(*)旧の二俣川は天竜川からの逆流で、度々村に水害を起こしていた。
当時の二俣村名主であった袴田喜長(よしなが/1716-91)は、1754(宝暦4)年の測量、1766(明和3)年の工事開始、1769(明和6)年の工事再開、1791(寛政3)年の完成迄、私財を投じて改修に努め、その年の10月、75歳で没した。
これによって二俣川は、現在のように真っ直ぐ南下して天竜川に注ぐルートとなり、水害に襲われる事はなくなった。
1984(昭和59)年、現 二俣町南口に頌徳碑が建てられた。

二俣城と鳥羽山城は、1560(永禄3)年の桶狭間の戦いを契機に、今川氏によって築かれたと考えられている。
そして、1568(永禄11)年に家康軍が三河から遠江に侵攻して今川勢を駆逐したのちは、徳川が所有する事となった。

1572(元亀3)年の三方ヶ原の戦いでは、武田信玄の軍が北から侵入、この地域と城を占領する。
更に1575(天正3)年の長篠の戦で武田勝頼軍と織田信長・徳川家康連合軍が戦うが、この時、二俣城を攻める家康軍は南の鳥羽山城に本陣を置き、二俣川を挟んで睨み合った。
この勝利により徳川が両城を支配。

その後、1590年に豊臣秀吉が天下統一した際、家康は関東に移封され、遠江は豊臣の重臣 堀尾吉春が治める事となった。浜松城に吉春、その支城である二俣城には弟 宗光が入った。
浜松城は堀尾吉春の下で改築され、石垣を整備し天守閣ができたが、ほぼ同じタイミングで二俣城と鳥羽山城も改築されたと考えられる。

しかし、10年後、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いによって徳川の世になると、堀尾氏は出雲へ移封され、二俣城と鳥羽山城の戦略拠点としての価値はなくなり、廃城となったのである。


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上の写真は本丸への入り口。2009〜15年の発掘で礎石が発見され、瓦葺きの門があった事が分かっている。

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これが現在残る天守台とその石垣だが、浜松城と同じく野面積みで、角は算木組みがなされているのが分かる。
周囲には、北と南の曲輪、二の丸、蔵屋敷、深い堀等が、山を階段状に削って、南北300m、東西250mの範囲に配置されている。

信康はこの城の何処で切腹したのか、それについて具体的に書かれた文書はない。
その後、信康の墓は、二俣城の北約600mの信康山清瀧寺(しんこうざんせいりゅうじ)に廟が建てられ、霊が祀られている。
参)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1969398418&owner_id=3341406


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ここはサクラとモミジの名所でもあるが、まだひと月程早かったようで、紅葉は極く僅かな木立に見られるだけだった。


南西に500m程の鳥羽山城跡には、山を下り、堤防上を歩いていく事も可能だが、車ではかなり大回りをする必要があった。
前述した通り、二俣城と同じ歴史を辿っているが、構造は違う。
二俣城は戦時の要塞としての役割が大だったが、鳥羽山城は、堀尾氏によって迎賓機能のある居城の性格を与えられた。

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上は裾から大手門へとなだらかに上る大手道、幅が6mもあり、同規模の城郭としては破格な規模で、軍事施設というより、主として賓客を迎え入る事を念頭に置いたであろう。

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本丸正面の大手門右側の石垣。二俣城と同じ野面積みである。
発掘によって柱の礎石らしき平らな石と瓦が発見された。二俣城と同じ瓦葺きの大手門であった事が推測される。

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これは、本丸の西側、1974〜75年の発掘で見つかった石組と築山。
京都の庭園と共通する枯山水様式の庭園を設えたのだろう。
石垣とは異なり、背後の土塁には小振りな丸石を使って趣きを出している。
こうした庭園は、戦国時代の山城には殆ど見られない。
やはり賓客を迎える事が強く意識されていると思われる。
尚、本丸には天守閣の遺構はなく、領主の住む館があったようだ。

このように、二俣城と鳥羽山城は対照的な性格を付与され、「別郭一城」という一連の城として築造されたであろう事が読み取れるのである。

本丸の南端には新しい展望台が設置されていた。
その上に立つと、三方原台地から更に遥か南方迄広々と視野を遮るものは何もなく、その先には45階建てのアクトタワーが霞んで小さく見えた。
 
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