mixiユーザー(id:3341406)

2020年10月31日14:42

1920 view

佐鳴湖畔の散策〜築山御前の最期を想いつつ (改)

10/23(金)、浜松市博物館で特別展「浜松城〜築城から現代へ」を見たあと、歩いて佐鳴湖畔迄出てみた。

時刻は15:30過ぎくらいだったろうか。
中区佐鳴台のホワイトストリートから浜松医療センターの方へ、ゆっくりカーブを描く道を下る。両側には立派な住宅が並んでいる。
医療センターの駐車場の脇迄下りて、平らな道を西へ進むと、じきに佐鳴湖が見えてくる。
家を建てる前は、湖の南西の丘の上にあるアパートに住んでいたので、この辺りはよく車で通ったものだったが、ゆっくり散策した事はない。
信号の向うに印度カレーのレストランがある。確かに昔からここに店があったが、それがこのカレーハウスだったかどうかは心許ない。店頭のプレートに、手書きで、新型コロナのせいで開店日と時間をコントロールしているらしき事が記されていた。

脇の細い道に入っていくと、「小藪船着場跡」と書かれた柱があった。
フォト

「跡」となっているが、民家の裏手、湖の岸辺には現在も貸しボート屋と小さな木の桟橋がある。
フォト

今は、佐鳴湖で遊んだり釣りをしたりしたい人に小さなボートを貸しているが、遥か昔は、乗り合いバスのように向こう岸に渡る舟航便があって、その「船着場」がここにあったという訳だ。
説明するものは何もないが、実は、ここは徳川家康の正妻で凄惨な最期を遂げた築山御前ゆかりの地である。

家康と築山御前、その嫡男信康の間に起こった事件については、今もその真相は明らかでないが、これ迄幾度も様々な角度から書いてきた。
つい先日、10/12の日記「浜松市中心部からの散策〜家康ゆかりの3寺 他」では、西来院にある築山御前の墓を訪れた旨記した。

以下参。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1977194325&owner_id=3341406
写真も掲載している、彼女の墓は「月窟廟」と呼ばれている。

今日は「小藪船着場跡」と西来院の間の時間を幾ばくか埋める試みをしてみようと思う。
1570(元亀元)年から浜松城に住んでいた家康は、旧居 岡崎城にいた築山御前を呼び寄せた。その時、既に家康の腹の内は決まっていだろうと推測する。

『浜松市史 二(近世編)』の記述に従い、いくらか想像を加えて書くと、1579(天正7)年8/29、御前は岡崎を出て、まずは東海道で御油(ごゆ)宿に至り、姫街道へと道を替えた。
厳しい本坂峠を越え、浜名湖北岸の三ケ日宿に出る。
そこで船に乗り、浜名湖を突っ切って、南東岸の宇布見(うぶみ)村(現在の西区雄踏町宇布見)に着く。ここで乗りかえたか同じ船でか、新川を遡って南岸に接する入野村で佐鳴湖に入り、北上、中程東岸の小藪で岸に上がった。

小藪から浜松城へは、GoogleMapで確認すると、現在の道路網なら殆ど真西へ3.5km、徒歩で45分程と出る。戦国時代の道路事情と、相当にある上り下りの坂を考慮すると、女性の足で1時間でもきついか。
小藪迄、家康の家来が迎えに来るという約束があったかもしれないが。

しかし、家康配下の2人は、命を受け、違う目的を持って築山御前を待っていた。
2人の名は分かっている、野中三五郎重政と岡本平右衛門時仲(*)である。

(*)2018年3/19の日記「宿蘆寺〜その2」参。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1965684914&owner_id=3341406
「月窟廟」の前には、野中三五郎の孫 重羽が供養のために寄進した燈籠が立っている。

2人は、小藪村の何処でかは知られていないが、御前に自害を迫った。しかし、御前がそれを拒んだため、首を刎ねて殺害した。
村名の通り小藪という場所は、人通りも少ない藪の茂った場所だったろう。
その後、この辺りは「御前谷」とも呼ばれるようになった。

今で言うと、佐鳴台の丘陵(広い三方原台地の南縁)と医療センターの裏山の間、細い川(名は不明)の流れる谷間である。
医療センターから西北西の方向へ、川沿いに谷間を500m程行くと「御前谷第一公園」という小さな公園がある。
小藪の船着場から御前谷第一公園辺り迄の間の何処かで、築山御前は殺されたに違いない。
GoogleMapの航空写真で見ると、こんな場所である。
フォト

船着場と御前谷第一公園のちょうど真ん中辺り、今は医療センターの駐車場内になるが、「太刀洗の池」という史蹟がある。
前掲2人の侍が、御前を斬った刀をこの池で洗い流したというのである。
フォト

この裏手、南10m程の所に昔は池があったらしいが、土地開発の影響を受けて今はなくなってしまった。ただ市の石碑と説明板があるだけだ。
今から60年程前、1958(昭和33)年頃の写真もある。
フォト


さて、首と胴体に分かれた築山御前の遺体は、西来院に胴体、岡崎に首が運ばれ、それぞれで供養された。
西来院の現在の「月窟廟」は、上で掲げたリンクで見て頂くとして、『浜松市史 二』にはこんな写真が掲載されていた。
フォト

墓が剥き出しになって、廟の建屋は存在しない。
廟は戦災で焼失し、1978(昭和53)年、築山御前400年忌の時に再建したという経歴からして、1945年から24年程の間は、この写真の状態だったと考えられる。

岡崎市には首塚が3つあるとの事だ。
以下3つの写真はネットから入手したもの。
祐傳寺の築山御前首塚。
フォト


八柱神社の築山御前首塚。
フォト

1977(昭和52)年に改築されて、真新しい。

祐傳寺は両町、岡崎市役所のすぐ東、八柱神社は更に東に行った欠町にある。
当初 祐傳寺に持ち込まれ、最終的に1646(正保3)年、八柱神社に収められたと言われている。

岡崎市朝日町の若宮八幡宮には、同じ事件に絡み、二俣城で自害させられた家康の嫡男 信康の首塚もある。
フォト

尚、信康の胴体の方は、天竜二俣城跡の北(現浜松市天竜区)、信康山(しんこうざん)清瀧寺に廟が建てられ、祀られている。
参)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1969398418&owner_id=3341406

当日は、様々な歴史の波を想い浮べつつ、小藪の船着場から佐鳴湖の東岸を南方向にしばらく歩いた。
多くの市民ランナー達が、同じ道を走っていた。
佐鳴湖は、整備された湖畔遊歩道を一周すると約6kmだそうだ。ランニングやウォーキングには絶好の環境である。
佐鳴湖の向うに落ちていく秋の夕陽のせいで、木立の隙間から覗く静かな湖面はきらきらと輝いていた。
 
0 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年10月>
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031